暴動前の社会情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 15:13 UTC 版)
1873年(明治6年)7月28日、政府は財源確保などを目的に地租改正条例を制定、コメの豊凶に関わらず税率を地価の3%とし、金納とすることを定めた。現在の三重県に相当する地域は、北部の三重県と南部の度会県に分かれており、地租改正事業の実施に差が生じていた。具体的には、戸長が官選で上意下達がうまくいった旧・三重県では1873年(明治6年)9月より公量人の選出が行われ、1876年(明治9年)4月には821村のうち761村で地租改正事業が完了した。一方で、戸長が民選であった度会県では民衆の意向を無視できなかったため、1874年(明治7年)3月から事業に着手し、1877年(明治10年)11月に市街地を除いて完了するという遅れが見られた。このずれが後の伊勢暴動に影響を与えることになるのであった。 1876年(明治9年)4月18日、度会県が三重県に編入され、現在とほぼ同じ領域を持つ三重県が誕生した。しかし、三重県誕生によってすぐ県下の政策方針が統一されたわけではなく、北勢(三重県北部)では1876年(明治9年)の米価を基準に地租を定めたのに対し、南勢(三重県南部)では1875年(明治8年)の米価を基準に定められた。1875年(明治8年)の方が1876年(明治9年)よりも米価が高かったため、南勢の農民の不満の種となった。また、地租は高いのに米を安く売らざるを得ず、更に米商人の買い叩きに遭い、その上櫛田川下流の三角州地帯は1876年(明治9年)9月に大雨で堤防が決壊、砂が田畑に流入するという多重苦に悩まされていた。 1876年(明治9年)11月14日、櫛田川下流の魚見村・久保村・新開村・保津村・松名瀬村(いずれも現在の松阪市北東部)の5村の連名で『正米納歟又ハ年々ノ相場ヲ以上納付様』という嘆願書を作成し、区長の桑原常蔵経由で三重県に提出しようと試みた。村人の思いはむなしく、桑原は嘆願書を三重県に届けなかったが、県内各地で地租の米納と地方税の減税を求める声が上がっていたこともあり、三重県は地租の3分の1を米納とすることを認める決定をした。ただし、農民には3分の2米納と誤情報が伝わってしまった。
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