鳥致院正面(第21連隊)
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「大田の戦い」の記事における「鳥致院正面(第21連隊)」の解説
第21連隊は鳥致院正面における遅滞戦闘を命じられた。連隊本部は鳥致院に配置されていたが、連隊長(ステフェンス大佐)は、全義の東側に展開した第1大隊(A、D中隊)とともにあった。これは、第1大隊長(C・B・スミス中佐)が、烏山の戦いで損害を受けた第1大隊主力(スミス支隊)の再編成のために大田に後退していたためであり、スミス支隊の再編成は10日頃に完了する予定であった。また、第3大隊(カール・ゼンセン中佐)は、車嶺山脈の主稜部に陣地を構築中であった。 9日午後、北朝鮮軍の戦車11両と歩兵200〜300名が全義に進入し、その後方には大縦隊が続行していた。アメリカ軍は第21連隊に加えて師団砲兵の主力を持ってこれを攻撃し、さらに航空支援も投入した。この猛烈な射爆撃によって、北朝鮮軍は多数の戦車・装備を喪失し、前進を阻止された。 翌10日早朝より、北朝鮮軍の攻撃が開始された。本道南側で孤立していた、第1大隊A中隊の1個小隊(ビックスラー小隊長)は、北朝鮮軍第4師団の主攻に直面することとなった。早朝の攻撃は、重迫撃砲による阻止射撃の支援を受けて撃退することに成功したが、まもなく、北朝鮮軍は大隊の右翼を迂回して本道上に進出し、本道上を突破してきた戦車部隊と協同して、大隊重迫撃砲小隊を蹂躙した。午前9時より北朝鮮軍は全面的な攻撃を開始し、重迫撃砲の支援を失ったビックスラー小隊は重囲に陥った。11時30分には空軍機2機の支援を受けたものの、同35分には危急を報告して連絡途絶、11時40分には全滅した。これにより、第1大隊の左翼が開放されてしまった。この際、砲兵の前進観測班と砲班との連絡が途絶したことから、砲兵は陣地が北朝鮮軍に占拠されたものと誤認し、友軍陣地への射撃を行い、連隊長の制止にもかかわらず、なかなかやめなかった。一方、右翼においても、11時25分ごろより、最右翼の小隊が三方よりの射撃を受けて、パニック状態に陥って後退しはじめていた。すなわち第1大隊は両翼包囲に陥りつつあり、このことから、12時5分頃、ステフェンス連隊長は退却を決心した。 この戦闘で、A中隊は兵員181名中57名の損害を受け、D中隊は6名、重迫小隊は14名の死傷者を出し、装備の大半を喪失した。第21連隊長は、後退するとともに、第3大隊に対して直ちに逆襲を命令した。第3大隊は本道北側の陣地を回復して兵士10名を救出したものの、本道南側の陣地の奪回には失敗した。なお、この逆襲にはM24軽戦車が参加し、T-34戦車1両を撃破したものの、2両を撃破され、後退している。また、この攻撃の間、平沢においては、米第5空軍が大規模な航空阻止攻撃を実施し、戦車38両、半装軌車7両、自動車117両を撃破して、攻撃を支援した。翌11日未明、第3大隊は逆襲を終えて元の陣地に復帰し、陣地に進入していた北朝鮮軍とゲリラを排除して再占領した。 11日早朝より、北朝鮮軍第3師団は、第4師団と交代して攻撃を開始した。これは、事前に砲兵の有線通信を切断した上で、砲兵は指揮所に対して射撃する一方、戦車部隊は霧に乗じて突入、歩兵部隊は山岳機動によって両翼を迂回し、両者が協同して攻撃するという、綿密な歩・戦・砲協同作戦であった。これによって、第3大隊長以下大隊本部は壊滅し、兵力の半数を喪失して、正午までにアメリカ第21連隊第3大隊は壊滅した。スミス支隊の敗走とあわせて、第21連隊の戦力は半個大隊にまで低下した。 烏山の戦いにおいて、アメリカ軍として最初の交戦を経験したC・B・スミス中佐は、指揮下の第1大隊主力(スミス支隊)の再編成を完了し、鳥致院北側において、鳥致院の最後の防御陣地を占領していた。12日払暁、大隊は両翼を包囲されていることを察し、午前9時30分より、北朝鮮軍の攻撃が開始された。北朝鮮軍は4倍の兵力を有しており、一方のスミス支隊は再編成後間もなく、十分に戦闘力を発揮できなかったことから、昼ごろには戦線に破綻の兆候が表れはじめた。既に連隊には予備兵力がなく、また、鳥致院から錦江までには地形障害となりうるものがなかったことから、ステフェンス連隊長は、一挙に錦江まで後退するように命令した。第21連隊の後退は、砲兵の支援下で秩序良く行なわれた。北朝鮮軍の追撃はなく、スミス支隊は午後3時30分ごろ、錦江南岸を占領した。しかし、その兵力は261名に過ぎなかった。
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