騎兵論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/19 14:59 UTC 版)
1919年(大正8年)11月、参謀本部第4部長の国司伍七少将が、陸軍の機関紙である『偕行社記事』に「騎兵ノ将来ニ就イテ」と題する論文を発表し、火器や軍用機の発達した第一次世界大戦の戦訓を踏まえ、乗馬戦闘用の騎兵は廃止すべきで、伝令・斥候用の乗馬歩兵で足りるとする主張をした。これに対して、植野徳太郎軍馬補充部本部長、大島又彦陸軍騎兵学校長らが反対の論陣を張って、激しい論争が起きた。 吉橋も、1920年(大正9年)1月に「“騎兵ノ将来ニ就テ”ノ所感」と題する論文を『偕行社記事』に発表し、あくまで乗馬戦闘教育は維持して徒歩戦闘と併用すべきであると国司少将を批判した。その際、吉橋は、歩兵も機会が少ない銃剣突撃を重視しているのだから、騎兵も機会が少なくても乗馬戦闘を軽視すべきでないと述べた。国司少将は、同年4月の「再ビ騎兵問題ニ就イテ」『偕行社記事』で吉橋に再反論し、吉橋が歩兵戦闘もほとんど射撃戦で決まるとしている点は、現代の士官に例を見ない「妄想」だと述べた。吉橋は、同年6月に再々反論する論文を執筆したものの、『偕行社記事』への発表は取りやめてしまった。 同年8月、吉橋は、国司少将により「妄評」を加えられたことが名誉上耐えられない旨の遺書を残して、割腹自殺した。『日本騎兵史』は、自殺の動機について、吉橋は論文の真意が理解されずに論争を拡大させてしまったことから、自殺により論争の終結を図ろうとしたもので、8月に中将進級の内示を受けて過分で申し訳ないと感じたことから実行に至ったとしている。中将へ死後進級させることも検討されたが、遺族が断った。吉橋の自殺を機に騎兵についての論争は沈静化し、1922年(大正11年)の騎兵操典改正でも乗馬戦闘は徒歩戦闘と並ぶ戦術として維持された。
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