農村トリブス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 04:37 UTC 版)
ディオニュシオスはまた 紀元前3世紀の歴史家クィントゥス・ファビウス・ピクトルの、トゥッリウスは国全体を26に細分化し、それに4つの都市トリブス(先出のローマ市内に作られた4つのトリブス)を加えて全部で30のトリブスを作ったという説 恐らく紀元前2世紀の歴史家ウェンノニウスによる、全体を31に区分して4つの都市トリブスを加え(最終的なトリブス数と同じ)35のトリブスを作ったという説 を紹介しているが、より信頼に値するカトはいくつに分けたかは記していないとしている。こうした各トリブスには高台に避難所が設けられ、徴税や徴兵、祭祀のための役人が置かれたという。この26という数字は紀元前1世紀の歴史家マルクス・テレンティウス・ウァロの『De vita populi romani』の断片にも現れており、これもほぼ間違いなくトゥッリウスによる分割を指すと考えられている。 最古のトリブスに関わる年表 紀元前6世紀中頃(計4+α) パラティナ区 スブラナ区 コッリナ区 エスクィリナ区 15農村トリブス設置? 紀元前509年 共和政ローマ樹立 紀元前504年 クラウディウス氏族移住 紀元前499年 クルストゥメリウム占領 紀元前495年(計21) クラウディア区 クルストゥミナ区 この4つの都市トリブス以外の農村トリブスについては、王政ローマ2代目のヌマ・ポンピリウスが平和のために農業を奨励し、領土をパギ(pagi、pagusの複数形)と呼ばれる地区に分けて監督したとプルタルコスが書き残している。ディオニュシオスも農村に設けられた避難所はπάγος(岩山)と呼ばれ、トゥッリウスは農村トリブスで毎年守護神に生け贄を捧げるパガナリア(Paganalia)祭を行うよう定めたとしており、農村部ではトリブスではなくパグスと呼ばれていた可能性があり、ほかにも都市はトリブスで農村はパグスとも読める史料も存在はしている。 この農村トリブスの数については、リウィウスが紀元前495年にただ「ローマに21のトリブスが設置された」とだけ書いているが、本来のリウィウスの写本においては、紀元前495年時点では31トリブスとするものがほとんどであり、その後のリウィウスの記述と矛盾することから21に校訂されている。 このセルウィウス改革については、 ディオニュシオスの記述から、農村部については元々存在していたコミュニティとしてのパグスをトリブスに編成していったのではないかという説 リウィウスが都市トリブスにしか触れていないことから、農村部についてはそれを支配する有力氏族との兼ね合いから手つかずで、王権の強化のため、従来のクリアに属することが出来ない商業などに携わる自由民を取り込むため都市トリブスを編成したとする説 単純に周辺部から流入していた人々を取り込むためにトリブスを再編成したという説 などがある。 また農村トリブスの名称について、執政官クラスを出した氏族から来ているであろう名称が多いが、他の一部は地名から来ているという説や、単に執政官クラスを出さなかっただけでそのために名称を知られていない氏族からであるという説もある。一方、最初期のケンソルが不定期に選出されていたことから、農村トリブスはそのトリブス設置法を通した氏族の名前を冠しているのではないかとする説もある。その場合、リウィウスの記述とは大きく異なる時期が想定される。 ロミリア区ティトゥス・ロミリウス・ロクス・ウァティカヌス(紀元前455年の執政官) パピリア区とセルギア区パピリウス氏族が高位政務官を出し始めた紀元前441年より後の紀元前435年もしくは紀元前430年のケンソル クラウディア区フィデナエ陥落後のアッピウス・クラウディウス・クラッスス (紀元前424年の執政武官) クルストゥミナ区クラウディア区設立以降 ガレリア区(地名)ウェイイ近辺であることから紀元前403年のケンソル、マルクス・フリウス・カミッルス
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