カストリ雑誌ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:37 UTC 版)
詳細は「カストリ雑誌」を参照 終戦後は言論統制が解放され、出版自由化に同調する形で、大衆の好奇心・覗き見趣味を煽る娯楽雑誌が大量に濫造された。これらの多くはエロ(性・性風俗)やグロ(猟奇・犯罪)に特化した低俗な内容で、たいてい3号で廃刊したことから、3合飲むと酔い潰れる粗悪なカストリ酒にかけて「カストリ雑誌」と総称された。発行されたタイトル数は2000とも4000とも推測されている。また雑誌の内容には、快楽殺人や強姦、近親相姦、阿部定に代表される死体損壊など、非常に多くの倒錯性が含まれていた。凄惨な戦争から解放されたにもかかわらず、大衆がエログロを求めた理由については諸説があるものの、いまだに明らかではない。 周囲からは「これからが梅原北明の真の出番だ」と期待されたが、すでに北明にその意志はなく、1946年(昭和21年)に発疹チフスであっけなく逝去する。終戦でエロ産業は一挙に解放され、巷は第二の桃色風俗出版ブームの華々しい黄金時代を迎えようとしていた。 1946年1月には菊池寛の命名で『りべらる』(太虚堂書房)が発刊され、創刊号は1万部を売った。同年10月にはカストリ雑誌ブームの火付け役となる『獵奇』(茜書房)が創刊され、発売から2時間で2万部を売り尽くした。創刊の辞は「平和国家建設のために心身共に、疲れ切った、午睡の一刻に、興味本位に読捨て下されば幸いです」と、至って低姿勢なものであった。 『獵奇』は、編集発行人の加藤幸雄いわく「梅原北明のような出版活動が戦後も堂々と出来るのか」という意図で創刊された。実際、本誌には北明周辺の作家も積極的に起用されており、2号からは北明の盟友だった花房四郎、明治大学教授で『変態十二史』シリーズを3冊も執筆した藤沢衛彦(本誌の顧問も兼任)、同じく本誌の顧問で北明とは深い交流があった古書研究家の斎藤昌三が編集者兼作家として参加した。それ以外の執筆陣としては、SM界の巨匠と名高い伊藤晴雨、生殖器崇拝研究の大家である久保盛丸、北明の雑誌『文藝市場』同人の青山倭文二ら錚々たるメンバーが名を連ねた。『猟奇』が出版史に名を残したのは、カストリ雑誌のスタイルを確立し、数万部を売ったこともあるが、注目すべきは第2号(1946年12月)に北明の遺作『ぺてん商法』と彼の訃報が掲載されたこと、そして北川千代三の官能小説『H大佐夫人』が問題視され、戦後はじめてわいせつ物頒布等の罪(刑法175条)による摘発・発禁を受けたことである。これは結果として『獵奇』の名声を高め、ここから戦前の性文献によく見られた考証や研究によらない「エロ読物を中心としたカストリ雑誌」への胎動が始まったとされる。亜流誌としては『新獵奇』『オール獵奇』『獵奇読物』『獵奇実話』『獵奇世界』『獵奇倶楽部』『獵奇ゼミナール』『獵奇雑誌・人魚』など「獵奇」を冠したカストリ雑誌がとにかく雨後の筍のように創刊された。 また戦後は阿部定リバイバルとも言うべきブームが起き、1947年3月に織田作之助が発表した『妖婦』を皮切りに阿部定事件を興味本位で扱ったカストリ本(お定もの)が相次いで出版される。木村一郎著『昭和好色一代女 お定色ざんげ』(石神書店・同年6月)は、地下出版された定の供述調書『予審訊問調書』 を告白文体で官能的に脚色したもので、発行2か月で公称10万部以上を売った。しかし、再び好奇の視線に晒された定は憤慨し、版元を名誉棄損で告訴する。その後、開き直った定は変名での生活を捨て、坂口安吾と対談したり、阿部定劇の主演女優となって全国を巡業したり、浅草の料亭で看板仲居を勤めたりするなど、波瀾万丈の生涯を送った。一人の男との愛と情欲に生きた阿部定の消息は現在も不明で、その最期を知るものは誰もいない。 このカストリ雑誌ブームは1947年にピークを迎えた。ほどなく露悪的でも猟奇的でもなく「夫婦間の性生活」という大衆的な目線でエロ(性)を打ち出した『夫婦生活』が大ヒットし、摘発と隣り合わせのアンダーグラウンドなカストリ雑誌は時代遅れになっていく。結局、ブームは1950年頃までに終息し、カストリ雑誌に関わったライター、編集者、デザイナーたちは無名のまま忘れ去られ、ほとんどの雑誌は公共図書館に所蔵されることなく散逸した。わずか数年で幻のように消えたカストリ雑誌は、現在もなお戦後出版史のミッシングリンクとみなされている。その後、カストリ雑誌を構成する「読物」「風俗」「実話」などの要素は、その後の週刊誌に吸収されていった。 なお、夫婦雑誌と前後してブームとなったのが、高橋鐵の性科学解説書『あるす・あまとりあ』の大ヒットを契機に創刊された『あまとりあ』『人間探求』『風俗科学』などの性科学研究誌である。これら雑誌は官憲の摘発を逃れるため、知的・高踏趣味のスタイルをとっており、娯楽要素は極力排除されていたが、わずかに残存していたカストリ雑誌も含め、1955年の悪書追放運動と官憲による弾圧でほぼ壊滅に追いやられた。また1960年代末にはカウンターカルチャー・ムーブメントの流れで、澁澤龍彥編集の耽美雑誌『血と薔薇』(天声出版)、ブラックユーモアやドラッグ・カルチャーを紹介した『黒の手帖』(檸檬社)、元『あまとりあ』編集長がプランニングした『えろちか』(三崎書房)などのインテリ向けエロ本が相次いで創刊されるが、売上不振により1970年代前半までに姿を消した。その後、元『えろちか』編集部の明石賢生と佐山哲郎は、従来のエロ本に対するオルタナティブとして伝説的自販機本『Jam』(1979)を創刊する。 一方、欧米では1930年代から活動しているフェティッシュ・アーティストのジョン・ウィリーによるSM雑誌『Bizarre』(1946 - 1959)やGene Bilbrewによる『ENEG』、『Exotique』(1956 - 1959)などが出版されている。中でも有名なSM雑誌は、イギリスの『AtomAge』(1957年刊)である。SM雑誌以外にも、アメリカでは「パルプ・マガジン」と呼ばれる安価で低俗な娯楽雑誌が大衆の人気を集めた。 1960年代には特殊効果を用いた実写の猟奇映画が多数登場したが、それ以前の1940年 - 1950年代はECコミックなどのホラー漫画が残酷描写を担っており、これらの作品では「拷問」「猟奇殺人」「四肢切断」「眼球・内臓摘出」などの猟奇的テーマをはじめ、アメリカで根強い人気があるゾンビなど、数々のグロモンスターがアメコミタッチで描写された。日本では、日野日出志や楳図かずお、古賀新一、丸尾末広が猟奇ホラーの重鎮である。猟奇やホラーに特化したイラストレーションは、1980年 - 1990年代のメタルやパンク・ロックバンドのジャケットでも数多く制作されている。
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