矢作藩
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矢作藩(やはぎはん)は、下総国香取郡の「矢作領」と呼ばれた地域(現在の千葉県香取市周辺)を治めた藩。徳川家康の関東入国時に鳥居元忠が配置され4万石を治めたが、伏見城の戦いで元忠が戦死し、その功績で鳥居家は加増のうえ転出したため廃藩となった。その後、矢作領は幕府領・旗本領などとして細分化される。1630年に徳川家光側近の三浦正次が1万石の大名となった際に「矢作」を居所としたが、転封により短期間で廃藩となっている。
注釈
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 正保2年(1645年)時点の香取村には、佐原・八日市場・小見川に通じる陸上交通路も集中していた[6]。
- ^ 酒井右二は文禄3年(1594年)より始まった瀬替え工事(利根川東遷事業参照)による流路変更にともない、急速に沖積洲島が形成されていったとする[14]。
- ^ なお慶長末年頃から、佐原など香取海南岸の「根郷」(本村)と「新島領」の新田の村との間では中洲の用益権などをめぐるさまざまな紛争が生じることになる[15]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』では「下総国香取郡矢作にをいて采地二千石をたまはり」とある[19]。
- ^ 香取市域には香取市神生にも同名の寺がある。
- ^ この歴史を縁として、佐賀県鹿島市と香取市が友好都市協定を結んでいる[21]。
出典
- ^ a b “香取村(中世)”. 角川地名大辞典. 2022年10月22日閲覧。
- ^ a b “大戸荘(中世)”. 角川地名大辞典. 2022年10月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g “Vol-012 香取の中世遺跡 大崎城跡”. アーカイブ香取遺産. 香取市. 2022年2月25日閲覧。
- ^ a b c “地域史編 旧久賀(くが)村 出沼(いでぬま)/村の支配者”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年2月25日閲覧。
- ^ a b c 『房総における近世陣屋』, p. 44, PDF版 62/313.
- ^ “香取村(近世)”. 角川地名大辞典. 2022年10月22日閲覧。
- ^ “佐原村(中世)”. 角川地名大辞典. 2022年10月22日閲覧。
- ^ “佐原村(近世)”. 角川地名大辞典. 2022年10月22日閲覧。
- ^ a b c d “Vol-120 岩ケ崎城跡 未完の城”. アーカイブ香取遺産. 香取市. 2022年3月6日閲覧。
- ^ “第一部>第三章>第一節>三 家康の関東支配と上総武士の去就>(1) 家康の家臣配置”. 大網白里町史(ADEAC所収). 2022年10月22日閲覧。
- ^ a b “地域史編 旧久賀(くが)村 大門(おおかど)/村の支配者”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年2月25日閲覧。
- ^ “岩ヶ崎城”. 日本の城がわかる事典. 2022年2月18日閲覧。
- ^ 佐原市役所編纂『佐原市史』、1966年、186頁
- ^ a b c d 酒井右二 1983, p. 2.
- ^ 酒井右二 1983, pp. 3–4.
- ^ “岩ケ崎村(近世)”. 角川地名大辞典. 2022年10月22日閲覧。
- ^ 酒井右二 1983, p. 9999.
- ^ a b “地域史編 旧久賀(くが)村 本三倉(もとみくら)/村の支配者”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年2月25日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十七「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1194。
- ^ a b c 長野暹. “鹿島藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2022年2月18日閲覧。
- ^ a b c d “香取市紹介”. 佐賀県鹿島市. 2022年2月25日閲覧。
- ^ a b c “Vol-013 九州大名家ゆかりの墓所 鍋島氏の遺跡”. アーカイブ香取遺産. 香取市. 2022年2月25日閲覧。
- ^ 『房総における近世陣屋』, p. 25, PDF版 43/313.
- ^ a b c “三浦正次”. 朝日日本歴史人物事典. 2022年2月18日閲覧。
- ^ a b “三浦正次”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年2月18日閲覧。
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