鳥居家転出後の矢作領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 06:43 UTC 版)
鳥居家転出後の矢作領4万石は徳川家直轄領となり、以後は大名や旗本などさまざまな領主によって細分化されていく。比較的まとまった旗本領としては、堀直重領(2000石)や、鍋島家領(5000石)がある。 堀直政の三男である堀直重は徳川秀忠に仕え、慶長6年(1601年)に香取郡矢作領のうち(新市場村・多田村・篠原村など)で2000石を領した。直重はのちに信濃国で加増を受け、元和元年(1615年)に信濃須坂藩1万5000石の藩主となる。直重の「墓所」(石塔)が、知行地に近い香取市香取の新福寺にあり、新福寺に近い多田村(香取市多田)付近に陣屋を構えたとみられる。なお、香取郡の堀家の知行地2000石は、直重の子・堀直升が3人の弟に分知している。500石ずつを分知された三弟・四弟は一代で無嗣断絶となったが、1000石を分知された次弟堀直昭の家が続いている。 佐賀藩主鍋島直茂の二男である鍋島忠茂は、徳川秀忠の御側小姓を務め、矢作領のうちで5000石を領した。慶長14年(1609年)、忠茂は佐賀藩から2万石を分与され、肥前鹿島藩主となる。忠茂は大坂冬の陣で体調を崩し、矢作領の上小川村(香取市上小川)で療養したが当地で没した。忠茂の嫡子鍋島正茂は、宗家の鍋島勝茂との折り合いが悪く、肥前の2万石を返上して(鹿島領は勝茂の子の鍋島直朝に与えられた)、矢作領5000石を治める江戸幕府旗本となった。鍋島家は元和2年(1616年)に郡陣屋(神崎町郡字岩崎)を置いて知行地を支配したが、元禄11年(1698年)に5代目の鍋島長行が三河国に所領を移されている。
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