鳥居家の矢作藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 06:43 UTC 版)
小田原征伐後、関東に移封された徳川家康は、矢作領84か村・4万石を鳥居元忠の所領とした。これには常陸の佐竹義重らに対する牽制の意味があったといわれている。元忠は大崎城に入城したが、まもなく岩ヶ崎城(香取市岩ケ崎)の築城を開始した。別の説として、岩ヶ崎城を築城したのは国分氏で、鳥居元忠は岩ヶ崎城に入城し、近世城郭への改修に着手したともいう。 慶長4年(1599年)には領内において総検地が行われている。矢作領84か村にわたる合計高約4万石で、一名「矢作縄」といわれ、それ以前より2倍半の増盛がなされた苛酷なものであった。翌慶長5年(1600年)に発生した関ヶ原の戦いの緒戦である伏見城攻防戦で元忠は戦死し、家康は戦後に元忠の武功を賞してその子・忠政を陸奥磐城平藩に加増移封したため、矢作藩は廃藩となった。元忠が着手した岩ヶ崎城は完成せず、また大崎城も廃城になったとされる。
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