鳥居家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:41 UTC 版)
正之と入れ替わりで、山形より鳥居忠春が3万2000石(3万200石)で入る。この忠春は関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死した元忠の孫である。鳥居家は元忠の勲功やその子忠政の功績もあり、24万石まで栄進していた。ところが忠政の子忠恒は病弱で公務が務まらず、しかも継嗣が無く33歳で病死したので、末期養子の禁令に触れてしまい、鳥居家は山形24万石を没収された。しかし幕府は元忠の勲功を認めて、忠恒の実弟忠春に3万200石を与えることで高遠藩に移封した。 忠春は兄の時代に失った24万石を取り戻そうと幕府の御用に励んだ。だがそのために藩財政は大きな負担を伴い、忠春は財源確保のために慶安2年(1649年)に年貢を増徴したため、領民は生活困窮と賦役に耐え切れず、承応3年(1654年)6月に3000人の百姓が尾張藩領の木曾に逃散する事件も起きた。また忠春自らも豪遊したりした。寛文2年(1662年)、忠春は侍医・松谷寿覚により斬りつけられ、それが原因で客死した。 忠春の跡を継いだ子の忠則は、元禄2年(1689年)2月に江戸城馬場先御門の警備を担当していた家臣高坂権兵衛が職務中、幕府御側衆の平岡頼恒の屋敷を覗いていたところを、平岡家の家臣に取り押さえられる事件が起こった(高坂権兵衛事件)(高坂は主家に累が及ぶことを恐れ、取り調べ中に自害)。この事件で忠則は家中不取締の責任を追及されて閉門となり、その最中の7月に急死した(自害したといわれる)。忠則の死により、鳥居家は再度改易となった。 忠則の後継者であった忠英は、先祖元忠の勲功により、1万石を与えられて能登下村藩を立藩している。
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