山口教吉とは? わかりやすく解説

山口教吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/04 07:59 UTC 版)

 
山口 教吉
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄3年(1560年)?
別名 通称:九郎次郎(九郎二郎)
主君 織田信秀今川義元
氏族 山口氏
父母 父:山口教継
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山口 教吉(やまぐち のりよし)は、戦国時代武将織田氏今川氏の家臣。

略歴

山口教継の子として誕生。織田信秀死亡して信長がその後を継ぐと、鳴海城主であった父と共に今川義元寝返る。教継は鳴海城を教吉に任せ、自らは桜中村城に立て篭もった。天文22年4月17日1553年5月29日)、19歳の信長は約800の軍勢を率いて鳴海に攻め込むが、鳴海の北にある小鳴海の「三の山」[1]で、そこより東の赤塚[2]に教吉が約1,500の軍勢を進めているのを発見する。これに気付いた信長は赤塚に向かって攻撃を開始、戦闘となった。しかし勝敗はつかず結局、互いの捕虜や捕らえたを交換して双方は引き上げた(赤塚の戦い[3]

その後、教継が調略をもって大高城沓掛城を乗っ取り、鳴海城には義元家臣の岡部元信が城代として立て篭もった。それから程なく教吉は教継と共に駿河国へ呼び出され、義元の命により父子ともども切腹を強いられ果てた[4]

脚注

  1. ^ 旧・鳴海町名古屋市緑区)にある山王山。
  2. ^ 旧・鳴海町(名古屋市緑区)赤塚。
  3. ^ 太田牛一信長公記』 「三の山赤塚合戦の事」
  4. ^ 太田牛一 『信長公記』 「おどり御張行の事」

関連項目


山口教吉(やまぐち のりよし)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/31 05:25 UTC 版)

戦國ストレイズ」の記事における「山口教吉(やまぐち のりよし)」の解説

鳴海城城主鳴海領主として織田家仕えていたが、当主信秀から信長へ)の代替わり機に、父の山口教継と共に隣国今川家通じ領地明け渡す赤塚の地で信長軍勢相見えるが、その一糸乱れぬ兵の動き目の当たりにし、信長の才に驚愕する。

※この「山口教吉(やまぐち のりよし)」の解説は、「戦國ストレイズ」の解説の一部です。
「山口教吉(やまぐち のりよし)」を含む「戦國ストレイズ」の記事については、「戦國ストレイズ」の概要を参照ください。

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