長福寺_(名古屋市緑区)とは? わかりやすく解説

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長福寺 (名古屋市緑区)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/12 08:43 UTC 版)

長福寺

長福寺本堂
所在地 愛知県名古屋市緑区桶狭間427番地
位置 北緯35度3分9.4秒 東経136度58分17.7秒 / 北緯35.052611度 東経136.971583度 / 35.052611; 136.971583座標: 北緯35度3分9.4秒 東経136度58分17.7秒 / 北緯35.052611度 東経136.971583度 / 35.052611; 136.971583
山号 和光山
院号 天沢院
宗旨 浄土宗
宗派 西山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 1538年天文7年)
開山 善空南立(ぜんくうなんりゅう)
正式名 和光山天沢院長福寺
文化財 今川義元木像(寺宝)、松井宗信木像(寺宝)
法人番号 8180005001811
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長福寺(ちょうふくじ)は、愛知県名古屋市緑区にある西山浄土宗浄土宗西山派の一派)の寺院である。

概要

山号和光山(わこうざん)、院号天沢院(てんたくいん)と称する。本尊は阿弥陀如来である。1560年6月12日永禄3年5月19日)の桶狭間の戦いにおいて敗死した今川義元の供養寺として知られている。

沿革

『張州雑志[注 1]』には美濃国山県郡溝口村[注 2]にある慈恩寺の末寺とある[1]開山室町時代後期(戦国時代)の1538年天文7年)、善空南立(ぜんくうなんりゅう)上人によるといい、桶狭間の戦いの折りには当地に到着した今川勢を饗応し、労をねぎらったという逸話を持つ[2]

ただし、『張州雑志』によるところの善空南立の没年は1701年元禄14年)とあり[1]、室町時代後期の開山からその死までの期間が少なくとも160年以上を数えるというのは不合理であるため、彼は江戸時代初期の僧侶であり、当時衰退していた長福寺を立て直した中興の開山としてその名を残しているとする見方もある[3]。『尾張徇行記[注 3]』においても、長福寺草創の由来は知れず、中興開山が善空南立であるとしている[4]

また、長福寺の創建は天文期ではなく桶狭間の戦いの後の1569年(永禄12年)だとする説もあるが[3]、室町時代後期という時期は共通している。なお、桶狭間の地には古く、日観上人という日蓮宗大本山法華経寺の僧侶が道場を開いて教化にあたっていたという伝承があり[5]、法華寺(ほけでら)と呼ばれたその道場がいつしか追分[注 4]に移転し、廃寺になっていたところに再興されたのが長福寺だとする見解を、『有松町史』は示している[3]。いずれにせよ桶狭間の戦いの時点で、法華寺であれ長福寺であれ当地に寺が存在していた可能性はある[6]

18世紀初頭には荒廃が進んでいたとされるが、1740年元文5年)に住職となった観岳上人が堂宇をすべて再築したという[3]天明年間(1781年-1788年)には火災が起き、寺宝焼失の憂き目に遭っている[7]

伽藍・文化財など

境内には本堂薬師堂観音堂鐘楼などの堂宇があり、境内南側に蓮池と呼ばれる放生池が、境内の東奥に墓地が広がっている。山門から入った付近に大杉が一本立ちそびえているが、伝承では、今川義元の茶坊主であった林阿弥(りんあみ)がこの場所で主君の首実検を命ぜられたという[2]。大杉は供養杉として長らく境内にあったが、1959年昭和34年)の伊勢湾台風によって倒れ、現在は2代目である[2]。なお、林阿弥は許されて故郷に帰ったが、後に回向のために当寺を訪れた際に納めた阿弥陀如来[注 5]が現在の本尊であるという[7]。伝承の真偽のほどは不明だが、当本尊が寛文年間(1661年-1673年)より以前から長福寺に安置されていたことは確実である[8]
寺宝として今川義元及び松井宗信の木像があり、その旨を示す標柱が境内に建っている。また、桶狭間合戦記・鎧・槍などを所蔵している[7]

長福寺の近隣にはため池「大池」があり、これを水源とする境川水系鞍流瀬川(くらながせがわ)が参道を分断し、現在は暗渠化されているもののかつては「浄土橋」と呼ばれる橋がかかっていたという。桶狭間の戦いの折り、この川は血で真っ赤に染まり、馬のの流れる様子から鞍流瀬川と名づけられたともいわれる。浄土橋という名にも、大量の戦死者への供養の意が込められていたという[9]

長福寺の所在地「桶狭間」

長福寺の所在地である桶狭間はかつて桶迫間・桶廻間・桶狭などと記され[10]知多郡に所属する尾張藩領の村であった。1878年明治11年)に「桶狭間」の表記に統一されると共に同郡共和村の一部になったが1881年(明治14年)に再び分村し独立、1889年(明治22年)には市制・町村制施行に伴う桶狭間村となるものの、極度の財政難から単独で存続することが叶わず1892年(明治25年)には再度共和村の一部となる[11]1893年(明治26年)に共和村から離脱し有松町に編入、旧有松町は有松町大字有松に、桶狭間村は有松町大字桶狭間となる。1964年(昭和39年)12月1日、有松町は大高町と共に名古屋市と合併、緑区に編入され[12]、桶狭間は名古屋市緑区有松町大字桶狭間となる[11]

2010年平成22年)11月6日には、緑区内で町名及び町界の変更が実施されたことに伴い、長福寺の地籍も緑区有松町大字桶狭間字寺前14番地から緑区桶狭間427番地に変更されている[13]

アクセス

参道沿いには参拝者用の駐車場がある。公共交通機関を利用する場合は、名鉄名古屋本線 有松駅にある名古屋市営バス「名鉄有松」バス停から「有松12号系統」あるいは「緑巡回系統」に乗車し、「桶狭間寺前」バス停で降車する(2015年平成27年)3月現在)。なお、長福寺周辺には桶狭間の戦いにまつわる史跡が多く点在し、有松駅を起点もしくは終点として徒歩で史跡を巡りながら長福寺を訪れる参拝者・観光客も多い[14]

ギャラリー

脚注

注釈

  1. ^ 1789年寛政元年)に刊行された、全100巻に及ぶ尾張藩の博物誌である。
  2. ^ 現在の岐阜市溝口付近に相当する。
  3. ^ 1822年文政5年)に成立した、樋口好古による尾張藩の地誌である。
  4. ^ 現在の大府市追分町付近に相当する[5]
  5. ^ 源信作といわれる[1]

出典

  1. ^ a b c 『張州雑志 第二巻』:847-848ページ
  2. ^ a b c 現地案内板より。
  3. ^ a b c d 『有松町史』:16ページ
  4. ^ 『名古屋区史シリーズ⑥ 緑区の歴史』:259-260ページ
  5. ^ a b 『知多郡史 下巻』:4ページ
  6. ^ 『名古屋区史シリーズ⑥ 緑区の歴史』:264ページ
  7. ^ a b c 『有松町史』:116ページ
  8. ^ 『緑区誌』:112ページ
  9. ^ 現地標柱の説明文より。
  10. ^ 『有松町史』:11ページ
  11. ^ a b 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:320-321ページ
  12. ^ 『緑区誌』:49ページ
  13. ^ 名古屋市緑区の一部で町名・町界変更を実施(平成22年11月6日実施)(名古屋市ウェブサイト、2012年7月7日閲覧)
  14. ^ 緑区あちこちマップ-桶狭間地区(PDFファイル、1.41メガバイト)(名古屋市ウェブサイト、2012年7月8日閲覧)

参考文献

  • 有松町史編纂委員会『有松町史』知多郡有松町、1956年(昭和31年)3月30日
  • 緑区区制20周年記念区誌編纂委員会『緑区誌』名古屋市緑区区役所、1983年(昭和58年)3月31日
  • 『張州雑志 第二巻』愛知県郷土資料刊行会発行、1975年(昭和50年)7月28日
  • 愛知縣知多郡役所『知多郡史 下巻』愛知縣知多郡役所、1923年大正12年)3月31日
    • (再復刻版)愛知県郷土資料刊行会発行、1980年(昭和55年)9月30日
  • 榊原邦彦『名古屋区史シリーズ⑥ 緑区の歴史』、愛知県郷土資料刊行会、1984年(昭和59年)11月30日
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 23 愛知県』、角川書店1989年(平成元年)3月8日



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