「桶狭間」の名称の由来とは? わかりやすく解説

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「桶狭間」の名称の由来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 03:46 UTC 版)

桶狭間」の記事における「「桶狭間」の名称の由来」の解説

桶狭間」の名称は、廻間大字桶狭間という名・字名として知られるとともに、「桶狭間の戦い」の故地地名として知られる廻間大字桶狭間地名の由来にかかわる伝承は、『有松町史』や名古屋市立有松小学校教材有松』、名古屋市立桶狭間小学校教材桶狭間』などで詳しく紹介されている。 それらによると、地名の由来については諸説あって定かでないが、一説には、古く洞と呼ばれた場所に由来するという。伝承では、南北朝時代室町時代初期)にあたる1340年代頃、皇室分裂に伴う政争において南朝与し落武者となった少数武者集団入郷があり、北朝南朝残党追討隊から逃れるために奥深くの「洞」(窪地)に家屋建てて隠れ住んだといわれ、名古屋市緑区有松町大字桶狭間セト山付近(現名古屋市緑区桶狭間)がその地であるという。 「洞」の字は、当時クキ」と読まれていたとされる。やがて「クケ」に訛り、さらに「ホケ」に転じたという。ここに谷間地形を指す「ハサマ」と結合し「クケハサマ」・「ホケハサマ」と連称されるようになり、戦国時代の頃までには「洞迫間」・「公卿迫間」・「法華迫間」といった漢字当てられている。小起伏の多い廻間大字桶狭間にあってハサマ」と目される地形数多く嵐廻間(あらしばさま)、六ヶ廻間(ろくがばさま)、神明廻間しんめいはさま)、牛毛廻間(うしけばさま)、梨木廻間(なしのきばさま)、井龍廻間(ゐりうばさま)といった古くからの地名各所残されている。桶狭間発祥地考えられるセト山は、中心地であった森前から見て裏手、すなわち背戸(せと)にあたることからその名が付いたとされ、隠れ場所比喩とも捉えられるような、標高40メートル台の丘陵地である。この山の中腹密かに居を構えていたとみられる落人たちの視線想定すれば、西方にはすぐ眼下鞍流瀬川南進する沖積平野南北細長く広がりその先森前神明丘陵地がそびえることから、この沖積平野付近落ちくぼんだ様子は「ハサマ」と捉えうるものであるまた、桶狭間東部にあたる東ノ池北緯35度2分58.8秒 東経13658分25.2秒 / 北緯35.049667度 東経136.973667度 / 35.049667; 136.973667)を中心に丸く平坦に広がった一帯を「」と見なす捉えかたもある。しかし『有松町史』は「ハサマ」の具体的な所在地について明確にしておらず、丘陵丘陵の間に広がるのようなのような谷底平野がその名にふさわしいと記すのみである。すなわち、丘陵谷底平野複雑に交錯する広範囲景観をもってハサマ」と名付いたと考えることが妥当のようである。 安土桃山時代成立といわれる軍記物足利季世記』には尾州「ヲケハサマ」とあり、廻間大字桶狭間に残る江戸時代最初期1608年慶長13年))の検地帳控が『慶長拾三戊申十月五日尾州智多郡廻間御縄打水帳』とあるのは、すなわち16世紀後半頃にはすでに「ホケ」・「クケ」がさらに「オケ」に転じていたことを示すものである漢字表記では、江戸時代になると「廻間」・「迫間」・「峡」といった表記が主となるが、廻間大字桶狭間に残る古文書では「廻間」が最も多く、数点「迫間」がみられ、尾張藩家老であった山澄英龍(やまずみひでたつ)の著書に『合戦記』があり、寛政年間1789年 - 1801年)に成立した寛政重修諸家譜』には「洞廻間」と記されたりしている。これら様々に表記されてきた漢字が「桶狭間」に統一されたのは、郡区町村編制法制定に伴う1878年明治11年)のことである。 上記示した「洞」の由来とまった異なり、「くるくる廻る間(ま、ひととき)」から廻間呼ばれるようになったとする説もある。郷土史家野孫によればその昔南朝落人による開墾次第軌道に乗った頃、大池北緯35度3分13.4秒 東経1365812秒 / 北緯35.053722度 東経136.97000度 / 35.053722; 136.97000)北部小さな土地に御鍬社(おくわしゃ)を祀って毎年農閑期田楽奉納するようになり、すなわちここにまず「田楽坪」の名が生まれたとする。それが後年いつのまに桶狭間とされたのは、名古屋刈谷を結ぶ三河街道長坂道)に沿っていたこの地がちょう道中中間地点でもあり、一息付けるような木陰の脇には泉がこんこんと沸いていて、水汲み用の水の勢いでくるくる廻る様子おもしろく眺めながら一服するひとときを過ごす旅人によって、そう呼ばれるようになったからだという。名古屋市緑区桶狭間北3丁目(旧有松町大字桶狭間ヒロツボ)にある「桶狭間古戦場公園」(北緯35度3分18.6秒 東経13658分16.5秒 / 北緯35.055167度 東経136.971250度 / 35.055167; 136.971250)は、かつて神廟祀られ田楽奉納され小さな土地跡地であるとされ、「義元公首洗いの泉」と呼ばれる小川なども整備されているが、1986年昭和61年)の区画整理前には「泉ボチ」と呼ばれて清水豊富にわき出る場所であったといわれるまた、大池の東に位置する和光長福寺境内にある「弁天池」と呼ばれる放生池も、くるくる廻る廻間伝承を持つ泉のひとつである。 現在、「桶狭間」の一般的な読みは「おけはざま」であるが、地元では「おけばさま」と連濁および清濁交代起こして読まれることがあり、さらに「おけば」と略することも一般的である。これは大字桶狭間自称されるのみならず、近隣大字有松豊明市栄町からも同様に呼ばれている。

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