庭田重保とは? わかりやすく解説

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庭田重保

読み方にわた しげやす

室町後期安土桃山期公卿庭田重親の子正二位大納言に至る。正親町天皇宮中歌合天正内裏歌合」をはじめ、多く宮中歌会に加わる。また日記に『重保朝臣記』がある。文禄4年(1595)歿、71才。

庭田重保

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/14 06:51 UTC 版)

 
庭田 重保
時代 室町時代末期-安土桃山時代
生誕 大永5年7月23日1525年8月11日
死没 文禄4年8月26日1595年9月29日
改名 重保→良祐(法名)
官位 正二位権大納言
主君 後奈良天皇正親町天皇後陽成天皇
氏族 庭田家
父母 父:庭田重親、母:今出川季孝の娘
兄弟 重保、顕能尼
広橋兼秀の娘
重具正親町季秀中御門資胤
花押
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庭田 重保(にわた しげやす)は、室町時代末期から安土桃山時代にかけての公卿権大納言庭田重親の子。官位正二位権大納言庭田家10代。自筆記「重保朝臣記」の作者。

生涯

後奈良朝享禄2年(1529年叙爵[1]侍従安芸権介右近衛少将、甲斐権介、右近衛中将蔵人頭美濃権守を歴任し、弘治元年(1555年参議に任ぜられ、公卿に列する[1]。その後も弘治3年(1557年正三位、翌永禄元年(1558年権中納言、永禄4年(1561年従二位天正3年(1575年権大納言、翌天正4年(1576年正二位と昇進を続け、天正10年(1582年)権大納言を辞する[1]。天正12年(1584年按察使[1]文禄4年(1595年)死去[1]。享年71。法名は良祐[1]

官歴

公卿補任』による

系譜

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 公卿補任

参考文献



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