戦国時代の本願寺
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第九世実如・第十世証如・第十一世顕如が本願寺宗主(現在西本願寺では「門主」と言っている)を務める100年間は、戦国混乱の時期にあたる。 本願寺は、民衆が支配者に対して展開した解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力となる。 この間に、教勢は著しく発展し、日本有数の大教団として、また一個の強力な社会的勢力としての地位を得るにいたる。 明応9年(1500年)、実如の長男照如、22歳で入寂。 永正年間。 越前(福井県)の朝倉氏の内紛に加賀(石川県)の門徒が介入(九頭竜川の戦いなど)。 永正元年(1504年)、相模(神奈川県)の後北条氏は、この年から50年間にわたって領内の真宗を禁ずる。 永正3年(1506年)、近畿・北陸・東海で、本願寺門徒が一斉に蜂起する。 永正4年(1507年)、家督相続候補の1人が養父である管領細川政元を暗殺(永正の錯乱)。 蓮如以来、政元と親交があった本願寺としては、紛争に巻き込まれることを恐れ、実如と宗祖真影は近江堅田に避難する。 永正6年(1509年)、実如、山科本願寺に戻る。 永正13年(1516年)、後柏原天皇の勅願寺となる。 永正18年(1521年)、越後(新潟県)の長尾氏、本願寺門徒を禁圧する。 永正18年(1521年)8月20日、円如(実如の次男)、32歳で示寂。 大永5年(1525年)2月2日、第九世実如の遷化にともない、孫の証如が本願寺を継承し第十世となる。 享禄5年(1532年)6月、細川晴元の要請を受けた証如は、近畿の門徒2万人を動員して畠山氏・三好氏連合を撃破(飯盛山城の戦い)。堺公方も滅亡。 ところが天文に改元後の同年8月、蜂起させた晴元は本願寺を見限り、法華一揆と結託して一向一揆との全面対決に及んだ。 晴元派の京都の日蓮宗徒と近江の六角定頼の連合軍の焼き討ちによって、同月12日に大津顕証寺を、同月24日には山科本願寺を焼失する(山科本願寺の戦い)。 そのため寺基を大坂石山の「大坂御坊」へ移し、「大坂本願寺」(「石山本願寺」)と号する。 「大坂御坊」は、蓮如の隠居所として建立された小規模な坊舎であったが、この頃には拡大されていて、寺内町も形成されていた。 天文10年(1541年)、朝倉氏との間で和談。 天文22年(1553年)、長尾景虎(上杉謙信)は京都への通路を確保するため本願寺と和解。 天文23年(1554年)8月13日 、第十世証如の入滅にともない、顕如が本願寺を継承し第十一世となる。 弘治2年(1556年)、朝倉氏との間で講和成立。 永禄2年(1559年)、顕如、門跡に列せられる。以前より、本願寺は青蓮院門跡の傘下とみなされていたが、証如・蓮如が2代続けて九条家の猶子となったことや青蓮院門跡が一時的に空位になっていたのを機に自立した門跡になれるように朝廷に工作、顕如の叔父・庭田重保の奔走で法相・天台・真言寺院以外では異例の門跡宣下を受けた。 下間氏が坊官、三河本宗寺・播磨本徳寺・河内顕証寺が院家となる。 永禄6年(1563年)、三河(愛知県)の本願寺門徒、徳川家康と争い、翌年に和睦。これ以後、徳川家康は領国内の本願寺門徒を禁圧。解禁と成ったのは、20年後の天正11年(1583年)。 薩摩(鹿児島県)の島津氏、明治初年まで禁教を継続。 永禄9年(1566年)、後北条氏が禁教を解除。上杉謙信と対抗するための連携を目的とするとされているが、禁教が実施されたのが確認できるのは享禄年間までで、天文年間以後善福寺や勝願寺(古河公方領、永禄年間に後北条氏支配下に入る)などの活動は許されていることから、この頃には形骸化していたとみられている。 永禄11年(1568年)、織田信長、京都に入る。 永禄12年(1569年)、顕如の次男顕尊が入寺した興正寺は脇門跡に任ぜられる。 元亀元年(1570年)9月12日、天下統一を目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたことを起因に、約10年にわたる「石山合戦」が始まる。合戦当初、顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦する。 石山合戦の頃から、「大坂本願寺」は、「石山御坊」と呼ばれるようになる。 合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因となる。 天正8年(1580年)3月、正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れた顕如は、信長との和議に応じる。顕如ら穏健派は石山本願寺から紀伊鷺森(鷺森本願寺)へ退隠する。しかし、信長を信用せぬ教如は徹底抗戦を主張したため、顕如から義絶されるが、それでもなお「石山本願寺」に籠城する(大坂拘様)。 同年8月2日、近衛前久の退去説得に応じた教如は、「石山本願寺」を信長に明け渡す。その直後に「石山本願寺」に火が放たれ灰燼と化す。退去に応じただけで強硬姿勢を緩めぬ教如は、その後も強硬派への支持を募る。 天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長自害。 同年6月23日、顕如、後陽成天皇から教如の赦免を提案される。 同年6月27日、教如は、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如と共に住し、寺務を幇助する。 天正11年 (1583年)、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築かれる。 同年(1583年)、宗祖真影を奉じて、和泉の貝塚にある石山本願寺の末寺であった寺(のちの願泉寺)に移る。(「貝塚本願寺」) 天正13年(1585年)5月、豊臣秀吉の寺地寄進を得て、大坂の天満(てんま)に移る。同年8月にまず阿弥陀堂を建て、翌年の8月には十間四面の御影堂が落成する。(大坂天満本願寺)
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