戦国時代の本願寺とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 戦国時代の本願寺の意味・解説 

戦国時代の本願寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 06:26 UTC 版)

本願寺の歴史」の記事における「戦国時代の本願寺」の解説

第九実如第十証如第十一世顕如本願寺宗主(現在西本願寺では「門主と言っている)を務め100年間は、戦国混乱時期にあたる。 本願寺は、民衆支配者に対して展開した解放運動のささえとなり、社会変革思想的原動力となる。 この間に、教勢著しく発展し日本有数大教団として、また一個強力な社会的勢力としての地位を得るにいたる。 明応9年1500年)、実如長男照如、22歳入寂永正年間越前福井県)の朝倉氏内紛加賀石川県)の門徒介入九頭竜川の戦いなど)。 永正元年1504年)、相模神奈川県)の後北条氏は、この年から50年間にわたって領内真宗禁ずる永正3年1506年)、近畿・北陸東海で、本願寺門徒一斉に蜂起する永正4年1507年)、家督相続候補1人養父である管領細川政元暗殺永正の錯乱)。 蓮如以来、政元と親交があった本願寺としては、紛争巻き込まれることを恐れ実如宗祖真影近江堅田避難する永正6年1509年)、実如山科本願寺に戻る。 永正13年1516年)、後柏原天皇勅願寺となる。 永正18年1521年)、越後新潟県)の長尾氏本願寺門徒禁圧する永正18年1521年8月20日円如実如次男)、32歳で示寂大永5年1525年2月2日第九実如遷化にともない、孫の証如本願寺継承し第十世となる。 享禄5年(1532年6月細川晴元要請受けた証如は、近畿門徒2万人を動員して畠山氏三好氏連合撃破飯盛山城戦い)。堺公方滅亡。 ところが天文改元後の同年8月蜂起させた晴元本願寺見限り法華一揆結託して一向一揆との全面対決及んだ晴元派の京都日蓮宗徒と近江六角定頼連合軍焼き討ちによって、同月12日大津顕証寺を、同月24日には山科本願寺焼失する山科本願寺の戦い)。 そのため寺基を大坂石山の「大坂御坊」へ移し、「大坂本願寺」(「石山本願寺」)と号する。 「大坂御坊」は、蓮如隠居所として建立され小規模な坊舎であったが、この頃には拡大されていて、寺内町形成されていた。 天文10年1541年)、朝倉氏との間で和談天文22年1553年)、長尾景虎上杉謙信)は京都への通路確保するため本願寺和解天文23年1554年8月13日第十証如入滅にともない顕如本願寺継承し第十一世となる。 弘治2年1556年)、朝倉氏との間で講和成立永禄2年1559年)、顕如門跡に列せられる以前より、本願寺青蓮院門跡傘下みなされていたが、証如蓮如2代続けて九条家猶子となったことや青蓮院門跡一時的に空位になっていたのを機に自立した門跡になれるように朝廷工作顕如叔父庭田重保奔走法相天台真言寺院以外では異例門跡宣下受けた下間氏坊官三河本宗寺播磨本徳寺河内顕証寺院家となる。 永禄6年1563年)、三河愛知県)の本願寺門徒徳川家康争い翌年和睦。これ以後徳川家康領国内の本願寺門徒禁圧解禁成ったのは、20年後の天正11年1583年)。 薩摩鹿児島県)の島津氏明治初年まで禁教継続永禄9年1566年)、後北条氏禁教解除上杉謙信対抗するための連携目的とするとされているが、禁教実施されたのが確認できるのは享禄年間までで、天文年間以後善福寺勝願寺古河公方領、永禄年間後北条氏支配下に入る)などの活動許されていることから、この頃には形骸化していたとみられている。 永禄11年1568年)、織田信長京都に入る。 永禄12年1569年)、顕如次男顕尊入寺した興正寺脇門跡に任ぜられる。 元亀元年1570年9月12日天下統一目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去命じたことを起因に、約10年にわたる「石山合戦」が始まる。合戦当初顕如長男教如とともに信長徹底抗戦する石山合戦の頃から、「大坂本願寺」は、「石山御坊」と呼ばれるうになる合戦末期になると、顕如中心に徹底抗戦構え団結していた教団も、信長との講和支持する勢力穏健派)と、徹底抗戦主張する勢力強硬派)とに分裂していく。この教団内部分裂が、東西分派遠因となる。 天正8年1580年3月正親町天皇勅使近衛前久仲介による講和受け入れた顕如は、信長との和議応じる。顕如穏健派石山本願寺から紀伊鷺森本願寺)へ退隠する。しかし、信長信用せぬ教如徹底抗戦主張したため、顕如から義絶されるが、それでもなお石山本願寺」に籠城する大坂様)同年8月2日近衛前久退去説得応じた教如は、「石山本願寺」を信長明け渡す。その直後に「石山本願寺」に火が放たれ灰燼と化す退去応じただけで強硬姿勢緩めぬ教如は、その後強硬派への支持募る天正10年1582年6月2日本能寺の変起こり信長自害同年6月23日顕如後陽成天皇から教如赦免提案される同年6月27日教如は、顕如より義絶赦免される赦免後は、顕如と共に住し寺務幇助する天正11年1583年)、石山本願寺跡地を含む一帯豊臣秀吉によって大坂城築かれる同年1583年)、宗祖真影奉じて和泉貝塚にある石山本願寺末寺であった寺(のちの願泉寺)に移る。(「貝塚本願寺」) 天正13年1585年5月豊臣秀吉寺地寄進得て大坂天満(てんま)に移る。同年8月にまず阿弥陀堂を建て、翌年8月には十間四面御影堂落成する。(大坂天満本願寺

※この「戦国時代の本願寺」の解説は、「本願寺の歴史」の解説の一部です。
「戦国時代の本願寺」を含む「本願寺の歴史」の記事については、「本願寺の歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦国時代の本願寺」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦国時代の本願寺」の関連用語

戦国時代の本願寺のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦国時代の本願寺のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの本願寺の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS