内藤貞正とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 内藤貞正の意味・解説 

内藤貞正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/15 21:24 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
内藤貞正
時代 室町時代
生誕 不明
死没 大永5年(1525年)6月3日
官位 備前守
幕府 室町幕府 丹波守護代
主君 細川政元高国
氏族 丹波内藤氏
父母 父:内藤元貞
兄弟 貞正、久清
国貞

内藤 貞正(ないとう さだまさ)は、室町時代武将細川氏の家臣。丹波国守護代丹波八木城主。

略歴

丹波内藤氏は代々丹波守護の細川京兆家に仕え、守護代を務める家柄であった。

永正4年(1507年)6月、主君の細川政元が暗殺されるという永正の錯乱が起こり、その跡を細川澄元が継ぐと、貞正は細川家の細川高国、摂津国人の伊丹元扶らと共に前将軍足利義稙を擁する大内義興の上洛軍を迎え、永正5年(1508年)4月には、細川澄元や三好之長、11代将軍足利義澄を近江へ追い落とした。貞正は細川高国に重用され、永正9年(1512年)2月15日、細川高国邸で行われた猿楽興行を主催している[1]

遅くても永正11年(1514年)までに息子の国貞に守護代の地位を譲っているが、隠居が目的ではなく国貞が京都で高国を補佐し、貞正は丹波の統治に専念するためであったと考えられる[2]

永正17年(1520年)5月の等持院の戦いでも貞正は伊丹国扶と共に細川高国を支援し[3]、三好之長を敗死させた。

脚注

  1. ^ 浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』
  2. ^ 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』P127-129.
  3. ^ 『細川両家記』

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「内藤貞正」の関連用語

内藤貞正のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



内藤貞正のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの内藤貞正 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS