澄之・澄元との争い
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「永正の錯乱」および「両細川の乱」を参照 永正4年(1507年)6月、政元が澄之派の重臣香西元長や薬師寺長忠らによって殺されると、8月に澄元は澄之討伐の兵を挙げた。この時高国は、澄元を支持して同族の細川政賢・細川尚春と共同で討伐に貢献し、澄元の家督相続を承認した(永正の錯乱)。 ところが、この一連の政変を好機と見た周防国の大内義興は、庇護していた流れ公方の前将軍足利義稙を擁して上洛軍を発した。そこで、澄元の命令で義興との和睦交渉に当たった高国だったが、澄元に背いて義興に通じると伊勢国に逃れた。前述の『不問物語』によれば、細川澄元に反発を強める細川一門が澄元に代わって政賢に京兆家を継がせようとした際に、細川元治がこれに反対して高国が政元の養子だった経緯に加え、実際の血縁は政賢よりも高国の方が京兆家に近い、高国の姉婿が畠山尚順であるため尚順から援軍を得られること、何よりも本人の器量と功績が申し分ないことを理由に高国を擁立するように主張したと伝えている。永正5年(1508年)に入ると高国は、仁木高長(仁木氏)、伊丹元扶、内藤貞正(国貞の父)らと呼応して京に侵攻し、澄元や将軍足利義澄を近江国に追放した。これに対し、5月5日に高国を京兆家当主であることを承認する義稙の御内書が出されている。その後、5月に摂津で抵抗する澄元側の池田貞正を滅ぼし、芥川信方は降伏を許すと称して堺におびき出して謀殺した。そして大内義興と共に入京し足利義稙を将軍に復職させ、自らは7月18日に右京大夫・管領に任ぜられた。 永正6年(1509年)、澄元の重臣・三好之長による京都侵攻を受けたものの、大内義興と協力して退け(如意ヶ嶽の戦い)、逆に近江に侵攻して勝利している。しかし永正7年(1510年)に近江への再侵攻した際には、澄元方を支持する国人の反抗もあって敗戦を喫し、責任をとって出家しようとしたほどであった。なおも政権奪還を諦めぬ澄元の攻勢を許した永正8年(1511年)、細川政賢や赤松義村まで加担した澄元方による京への再侵攻(深井城の合戦、芦屋河原の合戦)を受ける。そこで一時劣勢に追い込まれて丹波にまで撤退した高国だったが、澄元方の擁する前将軍足利義澄の病死などにも助けられて、8月24日の船岡山合戦に勝利した。 永正12年(1515年)頃、高国は澄元方の反撃と摂津支配の強化を目指して、芥川と西宮の郊外に芥川山城と越水城を築城して、能勢頼則と瓦林正頼(河原林政頼)を配置している。 永正15年8月2日(1518年9月6日)、それまで政権を支えてきた大内義興の周防への帰国によって、高国は単独で政権を運営する。しかし永正16年(1519年)、それを好機と見た阿波の澄元・三好之長らの摂津侵出(田中城の戦い)を許し、またも窮地に立たされる。そして翌永正17年(1520年)2月、大内軍の不在が響いたのか敗戦して近江坂本まで退散させられた。そこへ保身を図らんとする将軍足利義稙には、これを機に澄元と内通されてしまう。しかし、5月には六角氏・朝倉氏・土岐氏らの支援を仰ぎ、再度挙兵。京へ反撃侵攻した高国勢は之長を自害に追い込み、澄元を摂津に敗走させ、政権転覆の危機を乗り切ってみせた(等持院の戦い)。同年6月2日(6月16日)には、高国と長年に亘り対立を続けてきた澄元が阿波で病死すると、高国を見限って澄元に乗り換えようとした将軍義稙の面目は失われ、敵対者のいなくなった高国は事実上の天下人となった。なお、大内義興と細川高国には朝廷よりそれぞれ従三位と従四位下叙位の話があったが、義興は受諾したものの、高国は辞退して代わりに将軍の自邸への御成を受けている。 この後、高国は味方として武功も多かった瓦林正頼らに謀反の嫌疑をかけて殺害。自身の地位を脅かす恐れのある者の排除に乗り出し、内部の引き締めを図っている。永正18年3月7日(1521年4月13日)には、立場を失った将軍足利義稙が京を出奔。このため同月22日に行われた後柏原天皇の即位の礼は、高国のもとで行われた。これにより天皇の信任を失った義稙を排斥して、かつての敵対者であった義澄の遺児である足利亀王丸を擁立。将軍不在による高国政権の存続危機を防いだ。7月6日には亀王丸の上洛を迎え入れると、大永に改元後の8月29日には、亀王丸による代始の参賀を行わせた。12月24日に元服して義晴と改名した亀王丸は、翌日将軍に補任された。その後、前将軍・義稙からの侵攻を何度か受けるが、大永3年(1523年)4月に義稙も死去したため、高国の勝利に終わった。
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