澄元と高国の対立とは? わかりやすく解説

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澄元と高国の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:15 UTC 版)

永正の錯乱」の記事における「澄元と高国の対立」の解説

明応の政変将軍職追われていた前将軍足利義尹は、明応8年1499年)に西国一の大名である周防大内義興頼り以来その元にあったが政元暗殺後、幕府はその動向恐れて永正4年1507年)閏6月、義興追討綸旨得て安芸石見の国人らに義興追討命じた。しかし同年末、大内義興義尹擁して周辺国にも参加呼び掛けて上洛軍を起こし軍勢率いて山口発すると、備後国の鞆で年を越しつつ入京時期うかがったこの頃三好之長専横反発する畿内勢力細川高国元に結集していた。澄元は大内義興和議を結ぶための交渉高国差し向けようとしたが、逆に高国伊賀出奔義尹・義興と結び、摂津伊丹元扶丹波内藤貞正らの畿内周辺国人味方につけた永正5年1508年4月、澄元や11代将軍足利義澄は相次いで近江逃れ高国入京した。4月末、義尹・義興は和泉国堺に到着出迎えた高国京兆家家督継いだ6月前将軍義尹は堺から京に入り、再び将軍となった高国細川家家督象徴する右京大夫となり、大内義興左京大夫管領代山城守となった。 この1年の間に、細川京兆家家督は政元から澄之、澄元、高国めまぐるしく入れ替わった。なお、近年の研究では管領職の政治的な権限喪失されていたために、細川京兆家家督継いで管領就任することはなくなり、政元が明応3年1494年)に辞任した後はずっと空席の状態であった考えられている(政元・高国は将軍元服などの重要な儀式の際に管領任じられているが、いずれも儀式が終わると直ち辞任している。細川京兆家家督管領職を同時に継承したとするのは、江戸時代書かれ軍記物由来し当時一次史料による裏付けは全く無いものである)。

※この「澄元と高国の対立」の解説は、「永正の錯乱」の解説の一部です。
「澄元と高国の対立」を含む「永正の錯乱」の記事については、「永正の錯乱」の概要を参照ください。

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