澄之政権~澄元政権とは? わかりやすく解説

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澄之政権~澄元政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:40 UTC 版)

細川政権 (戦国時代)」の記事における「澄之政権~澄元政権」の解説

政元暗殺後の6月24日、長忠と元長は細川澄元暗殺謀ったが、澄元は家臣三好之長の手引きによって近江脱出した(之長は澄元の養子入りの際に阿波細川家から同行して政元の家臣加えられていた)。こうして長忠と元長は澄之を擁立したのである。 しかし近江逃れた澄元・之長らは近江の国人衆と他の細川一族を味方につけ、8月1日には京都侵攻する。この戦いで澄之は敗れ、遊初軒(澄之の自邸)で自害した。長忠・元長らも自害し、澄之政権はわずか40日で崩壊した。 澄之を自害追い込んだ澄元は細川京兆家家督継いだ。ところがこのような内紛周防逃れていた足利義尹(義材)と大内義興のもとに知らされると、義興は九州中国諸大名動員して上洛開始したのである。澄元は高国命じて義興と和睦しようとしたが、高国はその意に反し義興と通じて寝返ったこのため和睦交渉決裂する永正5年1508年4月西から義興が率いる軍、東から高国率い伊賀などの軍勢攻められた澄元は京都放棄して近江逃亡した。この時、澄元に擁立されていた足利義澄近江逃亡したこのため、再び義尹将軍復帰し(後に義稙改名)、高国京兆家家督継いで管領、義興は管領代となって今度高国・義興の連立による傀儡政権成立したのである

※この「澄之政権~澄元政権」の解説は、「細川政権 (戦国時代)」の解説の一部です。
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