潼関の戦い後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 15:00 UTC 版)
212年、馬超と韓遂の一族は、前年の反乱に連座して処刑された。馬超は再び反乱を起こして漢中の張魯と手を結び、涼州刺史の韋康を和議を結ぶ振りをして殺害し、冀城を根拠地とし、曹操軍の涼州方面司令官の夏侯淵を破るなど、しばらく抵抗を続けた。しかしそれも長くは続かず、韋康の復讐のために挙兵した楊阜らに冀城を奪われると、張魯に降った。馬超は張魯に兵を借りて戻り、祁山を包囲したが、夏侯淵軍の先鋒の張郃に攻められ、戦わずして逃走した。やがて馬超は張魯と不和となってその元を去り、成都の劉璋を攻めていた劉備に帰順した。劉備と共に成都を攻め、益州を手中にした劉備の客将として一生を終えた。 他方、韓遂は羌族と組んで同じく夏侯淵と戦うが敗れ、西の果て西平に逃れて病死した(殺害されたとも)。曹操は馬超・韓遂両名の没落と前後して、夏侯淵・張郃ら諸将に命じて梁興ら関中の残党や独立勢力の宋建を下し、涼州を平定した。 曹操は漢中の張魯も降伏させ一時的に漢中を手中におさめるも(陽平関の戦い)、まもなく漢中の支配権をめぐって劉備と争うことになる(定軍山の戦い)。
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