潼関と戦いとその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:04 UTC 版)
この頃、潼関を出て敵を撃破すべきと上奏するものがおり、玄宗は進軍するように命じた。哥舒翰は守戦が利として反対する。北地で戦っていた郭子儀と李光弼も守るべきと上奏したが、楊国忠が強硬に言い張り玄宗も同意した。 何度も出撃命令の使者を送られた哥舒翰は慟哭したが、20万の兵を率い潼関から出た。 安禄山軍の武将・崔乾祐と交戦するが、伏兵にあい大敗。潼関に退却し、敗残兵8千を率いて再戦を試みるが、武将の火抜帰仁が裏切ったために捕らえられる。火抜帰仁は、安禄山軍の田乾真に降伏し、哥舒翰は洛陽に送られる。 この時、安禄山に平伏して、「陛下(安禄山)のために、李光弼や魯炅を書状で招きましょう」と言ったと伝えられる。なお、火抜帰仁は不忠として安禄山に殺された。 しかし、諸将の返書が哥舒翰が節に死ななかったことを責めた内容であったために、軟禁されてしまう。至徳2載(757年)10月、唐軍の洛陽回復の際、逃亡する安慶緒によって殺される。
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