高国政権と両細川の乱とは? わかりやすく解説

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高国政権と両細川の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:40 UTC 版)

細川政権 (戦国時代)」の記事における「高国政権と両細川の乱」の解説

永正の錯乱」を参照 永正6年1509年)、京都奪還目指す澄元・之長らは京都侵攻するが敗退如意ヶ嶽の戦い)する。このため永正7年1510年)には逆に高国・義興による近江侵攻が行われたが、澄元は近江国人衆の支持得てこれを破るなど、一進一退の攻防続けられた。 永正8年1511年)、澄元は細川政賢赤松義村らを味方につけた大軍率いて京都侵攻し各地高国・義興連合軍破った。ところが後ろ盾であった近江守護六角高頼高国方に寝返り、さらに8月14日に澄元が擁していた足利義澄病死してしまう。このためもあって、8月24日行われた決戦である船岡山合戦で澄元は大敗喫して細川政賢戦死し、澄元は摂津敗走した将軍足利義稙擁する高国と義興の連立政権はしばらく続いたが、永正15年1518年8月2日大内義興周防帰国したため、高国による単独政権となる。ところが反攻機会うかがっていた澄元らは、永正16年1519年10月摂津侵攻した田中城の戦い)。この侵攻高国防ぎきれず、永正17年1520年1月になると山城土一揆が起こるなどして遂に近江逃亡する。この時、高国不仲だった義稙高国行動を共にせず、澄元の庇護受けた。しかし5月になると近江逃れた高国大軍率いて京都侵攻し、澄元は摂津敗走し三好之長捕らえられ処刑された(等持院の戦い)。そして6月10日、澄元も最終的に逃亡した阿波勝瑞城病死した。 澄元の死で敵対者がいなくなった高国であるが、元々実力者である大内義興の力を背景にした政権であったことからその政権基盤脆弱なものであり、義興が帰国した後の高国強権政治敷きこれを維持せざるを得なかった。功臣河原林政頼利倉民部丞らを粛清したのを始めとして、大永元年1521年)には対立していた将軍足利義稙追放して義澄の子足利義晴新たに第12代将軍擁立するなど、まさに「今は心に懸る事もなく、威稜日月増長であった大永5年1525年4月高国は子の稙国に家督譲って隠居するが、稙国は12月早世してしまいやむなく家督を再相続した

※この「高国政権と両細川の乱」の解説は、「細川政権 (戦国時代)」の解説の一部です。
「高国政権と両細川の乱」を含む「細川政権 (戦国時代)」の記事については、「細川政権 (戦国時代)」の概要を参照ください。

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