高商側の勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 01:17 UTC 版)
東京高商商議員でもあった渋沢栄一は、東京を始めとする大阪、横浜、神戸、京都の商業会議所を代表する中野武営、高商父母保証会とともに調停に当たった。5月22日、中野武営は三団体を代表して高商に訣別した学生に対して復学を勧告し、渋沢栄一も翻意を促した。中野は、学生の主張が商業大学を一橋に設置すること、それまでは専攻部を存続させることの二点であることを確認した上で、復学すれば渋沢らとともにその政策の実現に向けて努力することを約束した。こうした説得に応じ、5月24日、1300人あまりの学生が無条件で復学した。その後、文部省は、渋沢らの調停を受け6月25日に高商専攻部を今後4年間存置する旨の省令を出すことで事態を収拾、さらに1912年3月25日には専攻部をそのまま存続することを決定した。これは当面の大学昇格は実現できなかったものの、専攻部が存続することでその後の大学昇格への基礎が固まることとなり、事件はほぼ東京高商側の勝利に帰着することとなった。
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