高国との決戦とは? わかりやすく解説

高国との決戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 06:54 UTC 版)

細川晴元」の記事における「高国との決戦」の解説

永正11年1514年)に細川澄元の子として誕生6年後の永正17年6月10日1520年6月24日)、同族細川高国との争い敗れ阿波国退去していた父の死去により、晴元7歳家督継承した。ただ、細川京兆家家督を巡る高国との争い続けていた父は、高国幾度も煮え湯飲まされ続けたまま死去し晴元継承時も劣勢を覆せていない苦し状況続いていた。一方仇敵高国将軍足利義稙追放、代わって足利義晴将軍擁立して挿げ替え断行するなど事実上天下人として君臨しており、反撃機会は遠退いていた。 だが大永6年7月13日1526年8月20日)、従弟細川尹賢からの讒言信じた高国配下香西元盛討った為に元盛の兄弟波多野元清柳本賢治)達に背かれ勢力内部分裂を自ら招いた。そんな収拾つかない敵方窮状つけ込むべく、13歳晴元三好元長に擁されて、同年10月高国打倒兵を挙げた同年内には畿内まで進出し高国背いた波多野軍と合流した高国晴元争いは、細川氏家督奪い合う私闘であるにも係わらず高国現職管領である事を利用して将軍義晴擁立していたために、名目上官軍称する事が出来た。それでは晴元側は賊軍扱い受けてしまい、保身奔る味方離反される恐れ孕んでいた為、晴元側も義晴の弟・足利義維擁立する事で備えている。そもそも大永3年1523年)に足利義稙阿波国撫養下向してきた時に細川讃州家の助力得ようとしたが、当時晴元10歳少年であったため助力することかなわず失意のうちに義稙没したその後当時阿波守護晴元従弟細川持隆阿波細川館で、将軍継嗣としての義維と、細川宗家継嗣としての晴元一緒に養育していた(ただし、近年になって馬部隆弘は持隆は晴元実弟(澄元の次男であったとする説を提示している)。 大永7年2月12日1527年3月24日)、高国との決戦に勝利桂川原の戦い)。義晴擁したままの高国近江国追い落とすと、和泉国堺を本拠とした晴元は、都落ちにより実態失った高国政権替わるべく、義維を将軍戴く堺公方府」という擬似幕府創設したここまで三好元長功績抜群だったが、元長は柳本賢治傍流三好政長らと対立し晴元も元長が細川高国との和睦図ったことで不満を抱き賢治らの讒言受け入れていた為、享禄2年1529年)に憤慨した長の阿波下向という事態を招き堺公方府の軍事力低下させてしまった。高国備前国守護代浦上村宗結託して再起図り挙兵迎撃向かった賢治は享禄3年1530年)に高国刺客暗殺され勢い乗った高国宗らが摂津国侵攻し堺公方府を窮地に立たせた。 享禄4年1531年)になると細川高国摂津大半制圧された上、京都高国派の内藤彦七に奪回され堺公方府は攻撃危機晒されるものの、同年2月三好元長和睦3月に元長に高国軍の進撃を阻ませて膠着化に持ち込む中嶋の戦い)と、6月4日7月17日)には来援赤松政祐(晴政)による高国への支援装った騙し討ち決め手となって細川高国浦上村宗軍を壊滅させた(天王寺の戦い)。 戦後高国には逃亡されるも6月5日には潜伏中摂津国尼崎捕縛し8日には尼崎広徳寺自害させ(大物崩れ)、亡父の仇を討った

※この「高国との決戦」の解説は、「細川晴元」の解説の一部です。
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