高国との決戦
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永正11年(1514年)に細川澄元の子として誕生、6年後の永正17年6月10日(1520年6月24日)、同族の細川高国との争いに敗れ阿波国へ退去していた父の死去により、晴元は7歳で家督を継承した。ただ、細川京兆家の家督を巡る高国との争いを続けていた父は、高国に幾度も煮え湯を飲まされ続けたまま死去し、晴元の継承時も劣勢を覆せていない苦しい状況が続いていた。一方、仇敵の高国は将軍・足利義稙を追放、代わって足利義晴を将軍に擁立して挿げ替えを断行するなど事実上の天下人として君臨しており、反撃の機会は遠退いていた。 だが大永6年7月13日(1526年8月20日)、従弟の細川尹賢からの讒言を信じた高国が配下の香西元盛を討った為に元盛の兄弟(波多野元清、柳本賢治)達に背かれ、勢力の内部分裂を自ら招いた。そんな収拾のつかない敵方の窮状につけ込むべく、13歳の晴元は三好元長に擁されて、同年10月に高国打倒の兵を挙げた。同年内には畿内まで進出し、高国に背いた波多野軍と合流した。 高国と晴元の争いは、細川氏の家督を奪い合う私闘であるにも係わらず、高国は現職の管領である事を利用して将軍・義晴を擁立していたために、名目上の官軍を称する事が出来た。それでは晴元側は賊軍の扱いを受けてしまい、保身に奔る味方に離反される恐れを孕んでいた為、晴元側も義晴の弟・足利義維を擁立する事で備えている。そもそも大永3年(1523年)に足利義稙が阿波国撫養に下向してきた時に細川讃州家の助力を得ようとしたが、当時の晴元は10歳の少年であったため助力することかなわず、失意のうちに義稙は没した。その後、当時の阿波守護で晴元の従弟・細川持隆は阿波の細川館で、将軍継嗣としての義維と、細川宗家継嗣としての晴元を一緒に養育していた(ただし、近年になって馬部隆弘は持隆は晴元の実弟(澄元の次男)であったとする説を提示している)。 大永7年2月12日(1527年3月24日)、高国との決戦に勝利(桂川原の戦い)。義晴を擁したままの高国を近江国へ追い落とすと、和泉国堺を本拠とした晴元は、都落ちにより実態を失った高国政権に替わるべく、義維を将軍に戴く「堺公方府」という擬似幕府を創設した。 ここまで三好元長の功績は抜群だったが、元長は柳本賢治と傍流の三好政長らと対立し、晴元も元長が細川高国との和睦を図ったことで不満を抱き賢治らの讒言を受け入れていた為、享禄2年(1529年)に憤慨した元長の阿波下向という事態を招き堺公方府の軍事力を低下させてしまった。高国も備前国守護代の浦上村宗と結託して再起を図り挙兵、迎撃に向かった賢治は享禄3年(1530年)に高国の刺客に暗殺され、勢いに乗った高国・村宗らが摂津国へ侵攻して堺公方府を窮地に立たせた。 享禄4年(1531年)になると細川高国に摂津の大半を制圧された上、京都も高国派の内藤彦七に奪回され堺公方府は攻撃の危機に晒されるものの、同年2月に三好元長と和睦。3月に元長に高国軍の進撃を阻ませて膠着化に持ち込む(中嶋の戦い)と、6月4日(7月17日)には来援の赤松政祐(晴政)による高国への支援を装った騙し討ちが決め手となって、細川高国・浦上村宗軍を壊滅させた(天王寺の戦い)。 戦後、高国には逃亡されるも6月5日には潜伏中の摂津国尼崎で捕縛し、8日には尼崎の広徳寺で自害させ(大物崩れ)、亡父の仇を討った。
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