上洛と観音寺騒動
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永禄4年(1561年)、細川晴元が三好長慶に幽閉されると承禎は激怒し畠山高政と共に京都に進軍し長慶の嫡男・三好義興と家老の松永久秀と対戦。一時的ではあるが三好氏を京都より追い出すことに成功している(将軍地蔵山の戦い)。翌永禄5年(1562年)3月5日に高政は河内国に於いて長慶の弟である三好実休に大勝し、実休を敗死に追い込んでいる(久米田の戦い)。そして翌6日に承禎は洛中に進軍し、8日に徳政令を敷き山城国を掌握した。 しかし、承禎は何故か山城を占拠した後は動かず、4月25日には高政に督促されたが依然として停滞し、続く5月19日から20日にかけて教興寺の戦いで畠山軍が壊滅すると山城から撤退、三好長慶と和睦した。 永禄6年(1563年)10月、義治が最有力の重臣で人望もあった後藤賢豊を観音寺城内で惨殺するという事件が起こった(観音寺騒動)。賢豊が承禎の信任が厚かったことから、義治が賢豊を殺害したのは承禎の影響力を排除する目的であったとする説もある。これにより、家臣の多くが六角氏に対して不信感を爆発させ、承禎も義治と共に観音寺城から追われるまでに至ったが、重臣の蒲生定秀・賢秀父子の仲介で承禎父子は観音寺城に戻ることができた。 永禄8年(1565年)5月、将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害される(永禄の変)と、義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が近江の和田惟政の下に逃れる。当初、承禎は覚慶の上洛に協力する姿勢を見せて野洲郡矢島に迎え入れたり、織田信長・浅井長政の同盟(お市の方と長政の婚姻)の斡旋をしているものの、三好三人衆の説得に応じて義昭(覚慶)を攻める方針に転じたため、義昭は朝倉義景の下に逃れた。これを受けて、永禄9年(1566年)には浅井長政が六角領に対して侵攻を開始、蒲生野合戦が行われるが、六角家中は観音寺騒動を契機に浅井家側に寝返る家臣が生じるなど求心力を失っており、浅井を食い止めるだけで精一杯となった。時期は明らかではないが、義賢がしたためた「今更、浅井に馬をつなぐことは恥辱である」との趣旨の文書が残されている。
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