上洛と観音寺騒動とは? わかりやすく解説

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上洛と観音寺騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:01 UTC 版)

六角義賢」の記事における「上洛と観音寺騒動」の解説

永禄4年1561年)、細川晴元三好長慶幽閉されると承禎は激怒し畠山高政と共に京都進軍し長慶嫡男三好義興家老松永久秀対戦一時的ではあるが三好氏京都より追い出すことに成功している(将軍地蔵山の戦い)。翌永禄5年1562年3月5日高政河内国に於いて長慶の弟である三好実休大勝し、実休を敗死追い込んでいる(久米田の戦い)。そして翌6日に承禎は洛中進軍し8日徳政令敷き山城国掌握した。 しかし、承禎は何故か山城占拠した後は動かず4月25日には高政督促されたが依然として停滞し、続く5月19日から20日にかけて教興寺の戦い畠山軍が壊滅する山城から撤退三好長慶和睦した永禄6年1563年10月義治最有力重臣人望もあった後藤賢豊観音寺城内で惨殺するという事件が起こった観音寺騒動)。賢豊が承禎の信任厚かったことから、義治が賢豊を殺害したのは承禎の影響力排除する目的であったとする説もある。これにより、家臣多く六角氏に対して不信感爆発させ、承禎も義治と共に観音寺城から追われるまでに至ったが、重臣蒲生定秀・賢秀父子仲介で承禎父子観音寺城に戻ることができた。 永禄8年1565年5月将軍足利義輝三好三人衆らに殺害される永禄の変)と、義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が近江和田惟政の下に逃れる当初、承禎は覚慶の上洛に協力する姿勢見せて野洲郡矢島迎え入れたり織田信長浅井長政同盟お市の方長政婚姻)の斡旋をしているものの、三好三人衆説得に応じて義昭覚慶)を攻め方針転じたため、義昭朝倉義景の下に逃れた。これを受けて永禄9年1566年)には浅井長政六角に対して侵攻開始蒲生野合戦が行われるが、六角家中は観音寺騒動契機浅井家側に寝返る家臣生じるなど求心力失っており、浅井食い止めるだけで精一杯となった時期は明らかではないが、義賢したためた今更浅井に馬をつなぐことは恥辱である」との趣旨文書残されている。

※この「上洛と観音寺騒動」の解説は、「六角義賢」の解説の一部です。
「上洛と観音寺騒動」を含む「六角義賢」の記事については、「六角義賢」の概要を参照ください。

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