将軍家指南役就任とは? わかりやすく解説

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将軍家指南役就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 15:17 UTC 版)

柳生宗冬」の記事における「将軍家指南役就任」の解説

家光の死から5年後明暦2年1656年)、宗冬に対し16歳になった将軍家綱へ新陰流伝授するよう命が下り名実ともに父・宗矩の死後空席となっていた将軍家兵法指南役となる。家綱病弱生涯病に臥せがちであったが、宗冬の指導の下、剣術愛好すること甚だしく熱心に稽古重ねようになった明暦3年1657年1月3日家綱より召されて剣術始めの儀を取り行い、これ以降家綱時代恒例行事となった同年12月従五位下飛騨守任じられ寛文元年1661年)には、館林宰相(後の5代将軍徳川綱吉からも入門誓紙受けて指南するうになる寛文4年1664年家綱より正式に新陰流入門誓紙を受け、翌寛文5年1665年)に印可与えた同年1月3日剣術始めの儀では、16歳となった嫡男・宗春も共に家綱相手務め、これ以後家綱稽古の際には常に宗春も相伴するようになった寛文8年1668年)、大和国山辺郡1700石の加増により総石高1万石となり、父の死から22年ぶりに柳生家大名復帰した嫡男の宗春が成長すると、虎ノ門本邸での門人指導は宗春に任せ、自らは新堀別邸指導を行うようになる。宗春は長者として慕われ虎ノ門には多く門人集ったというが、延宝3年1675年1月突如疱瘡にかかり、同年2月26歳若さ没した

※この「将軍家指南役就任」の解説は、「柳生宗冬」の解説の一部です。
「将軍家指南役就任」を含む「柳生宗冬」の記事については、「柳生宗冬」の概要を参照ください。

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