将軍家指南役就任
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家光の死から5年後の明暦2年(1656年)、宗冬に対し16歳になった将軍家綱へ新陰流を伝授するよう命が下り、名実ともに父・宗矩の死後空席となっていた将軍家兵法指南役となる。家綱は病弱で生涯病に臥せがちであったが、宗冬の指導の下、剣術を愛好すること甚だしく熱心に稽古を重ねるようになった。 明暦3年(1657年)1月3日、家綱より召されて剣術始めの儀を取り行い、これ以降家綱時代の恒例行事となった。同年12月に従五位下飛騨守に任じられ、寛文元年(1661年)には、館林宰相(後の5代将軍)徳川綱吉からも入門の誓紙を受けて指南するようになる。 寛文4年(1664年)家綱より正式に新陰流入門の誓紙を受け、翌寛文5年(1665年)に印可を与えた。同年1月3日の剣術始めの儀では、16歳となった嫡男・宗春も共に家綱の相手を務め、これ以後家綱の稽古の際には常に宗春も相伴するようになった。 寛文8年(1668年)、大和国山辺郡1700石の加増により総石高1万石となり、父の死から22年ぶりに柳生家は大名に復帰した。 嫡男の宗春が成長すると、虎ノ門本邸での門人の指導は宗春に任せ、自らは芝新堀の別邸で指導を行うようになる。宗春は長者として慕われ、虎ノ門には多くの門人が集ったというが、延宝3年(1675年)1月に突如疱瘡にかかり、同年2月に26歳の若さで没した。
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