新陰流入門
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永禄6年(1563年)宗厳34歳の時、新陰流流祖として名高い兵法家・上泉信綱とその門弟の一行が上洛の途上で奈良に立ち寄ると、信綱を訪ねてその門弟となる。入門の経緯について、宗厳の曾孫・柳生利方が残した『新陰流兵法由来』によると、宗厳は信綱本人との試合を望んだものの、信綱は先に弟子の鈴木意伯と立ち合うようにいい、宗厳は「さらば」と何度か試合したが、自分より二寸短い竹刀を操る意伯に惨敗したという。ただし、この試合の内容には異説もあり、江戸時代中期に著された『武功雑記』では試合の相手を同じく信綱の弟子の疋田豊五郎としているほか、尾張藩の史料を編纂した『名古屋市史』や利方の子孫が書いた『正伝新陰流』のように、信綱が直々に相手を務めたとするものもある。 いずれにしろ信綱が編み出した新陰流に完敗した宗厳は、己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、信綱を柳生庄に招いてその剣を学んだ。 翌永禄7年(1564年)、信綱は「無刀取り」の公案を宗厳に託して柳生庄を離れ、当初の目的だった京にのぼる。永禄8年4月に再び信綱が意伯と共に柳生庄を訪れると、宗厳は信綱に自ら工夫した無刀取りを披露して信綱より『一国一人印可』を授かり、さらに翌永禄9年(1565年)には三度柳生庄を訪れた信綱より『新影流目録』を与えられたという。
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