新陰流入門とは? わかりやすく解説

新陰流入門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:58 UTC 版)

柳生宗厳」の記事における「新陰流入門」の解説

永禄6年1563年宗厳34歳の時、新陰流流祖として名高い兵法家上泉信綱とその門弟一行上洛途上奈良立ち寄ると、信綱を訪ねてその門弟となる。入門経緯について、宗厳曾孫柳生利方残した新陰流兵法由来』によると、宗厳は信綱本人との試合望んだものの、信綱は先に弟子鈴木意伯立ち合うようにいい、宗厳は「さらば」と何度試合したが、自分より二寸短い竹刀を操る意伯に惨敗したという。ただし、この試合内容には異説もあり、江戸時代中期著された『武功雑記』では試合相手同じく信綱の弟子疋田豊五郎としているほか、尾張藩史料編纂した名古屋市史』や利方の子孫が書いた正伝新陰流』のように、信綱が直々に相手務めたとするものもある。 いずれにしろ信綱が編み出した新陰流完敗した宗厳は、己の未熟さ悟って即座に弟子入りし、信綱を柳生庄に招いてその剣を学んだ。 翌永禄7年1564年)、信綱は「無刀取り」の公案宗厳託して柳生庄を離れ当初の目的だった京にのぼる。永禄8年4月に再び信綱が意伯と共に柳生庄を訪れると、宗厳は信綱に自ら工夫した無刀取り披露して信綱より『一国一人印可』を授かり、さらに翌永禄9年1565年)には三度柳生庄を訪れた信綱より『新影流目録』を与えられたという。

※この「新陰流入門」の解説は、「柳生宗厳」の解説の一部です。
「新陰流入門」を含む「柳生宗厳」の記事については、「柳生宗厳」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「新陰流入門」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「新陰流入門」の関連用語

新陰流入門のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



新陰流入門のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの柳生宗厳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS