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滋野井季吉


滋野井季吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/17 01:24 UTC 版)

 
滋野井季吉
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正14年9月(1586年
死没 明暦元年12月5日1656年1月1日
改名 冬隆→季吉
戒名 智光院徹山大通
官位 正二位権大納言
主君 後陽成天皇後水尾天皇明正天皇後光明天皇後西天皇
氏族 滋野井家
父母 父:五辻之仲、母:葉室頼房女
義父:滋野井公古
兄弟 季吉、綾小路高有、五辻奉仲、五辻斉仲
葉室頼隆、冬晴、教広、五辻俊仲、真清、実定、東坊城知長室、遠山秀友継室、松平信濃守室
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滋野井 季吉(しげのい すえよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日本公卿。中絶していた滋野井家を再興した。

生涯

天正14年9月(1586年)、五辻之仲(当時は元仲)の長男として誕生する。初名は冬隆[1](ふゆたか)。

慶長5年(1600年)正月、15歳で叙爵され、同年4月に元服し昇殿を許される。元和2年4月26日1616年6月10日)、名を季吉(すえよし)と改める。寛永4年(1627年)、参議となり、公卿に列した。

寛永9年(1632年)には元日節会外弁を、寛永11年(1634年)は白馬節会の外弁を務める。寛永12年(1635年)には踏歌節会の外弁を務め、同年2月3日の春日祭上卿として参向する。寛永13年(1636年)は元日節会の外弁、寛永14年(1637年[2]と寛永16年(1639年)は踏歌節会の外弁を務めた。寛永16年12月29日(1640年2月20日)、寛永12年1月5日に従二位叙位の位記を賜った。寛永17年(1640年)は白馬節会の外弁を務め、11月7日の春日祭に上卿として参向、同18年(1641年)は元日節会の外弁を務めた。

寛永20年(1643年)、紹仁親王が即位する(後光明天皇)と、即位外弁を務めた。寛永21年(1644年)、元日節会の外弁を務める。同年2月16日、除服する[3]

明暦元年12月5日1656年1月1日)、70歳で薨去した。法名は智光院徹山大通[4]

官歴

系譜

  • 実父:五辻之仲
  • 実母:葉室頼房の娘
    • 兄弟:綾小路高有、五辻奉仲、五辻斉仲
  • 義父:滋野井公古
    • 男子:葉室頼隆 - 葉室頼豊猶子
    • 男子:滋野井冬晴
    • 男子:滋野井教広 - 冬晴猶子
    • 男子:五辻俊仲 - 五辻斉仲猶子
    • 男子:真清
    • 男子:実定
    • 女子:東坊城知長室
    • 女子:遠山秀友継室
    • 女子:松平信濃守室

脚注

注釈

  1. ^ 『系図纂要』では「之隆」。(『系図纂要』第五冊、p.503)
  2. ^ 公卿補任九条本では次項の大炊御門経敦に係っているという。(『公卿補任』第三篇、p.584「〔く係于經敦〕」)
  3. ^ 寛永21年1月25日に実弟の綾小路高有が薨去したことによる軽服だと思われる。
  4. ^ 『系図纂要』より。『公卿補任』では「法名徹山」とある。(『公卿補任』第三篇、p.640)
  5. ^ 『公卿補任』後水尾天皇寛永六年条、明正天皇寛永七年条、寛永八年条では「左中将」とされるが、こちらが誤記か。

参考サイト

参考文献



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