日野流六角家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 16:10 UTC 版)
後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が日光山輪王寺門跡となった際、東国下向に随従した烏丸光広の次男・広賢はそのまま京都に戻らず、後に江戸幕府に仕えて高家に列した際に六角院(ろっかくいん)と名乗った。そして、その子孫がこれを略して六角の家名を名乗るようになった。幕末に所領のあった下野国内で圧制を強いて、田中正造ら地元住民に激しく抵抗されたことでも知られている。
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