武術流祖録と中国渡航について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 14:05 UTC 版)
「楊心流」の記事における「武術流祖録と中国渡航について」の解説
武術流祖録(1843年刊行)では、肥前長崎に住む武官より柔術3手と活法28手を学んだとされ、その奥旨を極めるため、太宰府天満宮に参籠し、捕手300手を編み出し、流名を楊心流としたとされる。 武術流祖録は、大江が発行した直筆伝書(天和3年)から160年後に書かれたものである。 この書では流祖を秋山四郎左衛門義時としているが、義時は大江の名である。 また、天神真楊流の当流大意録(1800年代中期)では、秋山は医術修行のために中国に渡り、唐人博転なる人物より柔術3手と活法28手を学んだとされ、帰国した後にこれを教えたが手数が少なく弟子が集まらなかったので、太宰府天満宮に百日間参籠し、柳(楊)の枝に雪が積もらないのを見て柔術の極意を悟り、303手の技を編み出し、流名を楊心流としたとされる。 この二つの書では、秋山は300手の技を編み出したとされているが、当時の目録に記された技は300以下である。 なお、秋山四郎兵衛の存在および中国渡航については疑問がある。武道史研究家の綿谷雪は、当時は海外渡航が禁止されており、秋山の中国留学は怪しいと指摘した。 秋山四郎兵衛が中国に渡航したとする史料は、後世に書かれてた天神真楊流の当流大意録のみである。 また、楊心流系と関係が深い帝國尚武會(神道六合流)によると中国渡航説は主に楊心流の一派と真蔭流が唱えていた説で、中国から来たものだと言えば社会の信用が得やすかった中国崇拝時代に僅かな縁故を捕らえて斯くの如く吹聴したものだと指摘した。 なお、中国渡航説は一柳織部系の楊心流、その系統の流れを汲む天神真楊流、天神真楊流の分派などの一部の系統で伝えられていた説であるが、天神真楊流が楊心流系(流派を三浦楊心とする戸塚派楊心流を除く)の最大規模の流派で全国に広まっていたことや、天神真楊流から出た講道館柔道が書籍で楊心流の歴史を説明する際に天神真楊流の伝承に則り記したことなどにより、近代の文献では中国渡航説が主流となっている。
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