榛名湖の南の水門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/02 03:09 UTC 版)
「沼尾川 (榛名山)」の記事における「榛名湖の南の水門」の解説
元来、榛名山の火口にできたカルデラ湖である榛名湖の湖水は、カルデラの北東部の烏帽子岳・蛇ヶ岳のあいだの火口縁を侵食してできた火口瀬から外輪山を抜けて沼尾川として北へ流れ出し、吾妻川へ注いでいた。一方で、榛名山の南側の裾野では、烏川と井野川に挟まれた洪積台地(現在の高崎市の中心部に相当する。)を中心に慢性的な水不足に悩まされ、古くから長野堰が築かれるなど水源確保の試みが行われてきた。しかしそれも不十分であり、江戸時代にも水を巡って流域の村々のあいだで争いが絶えなかった。 江戸時代中期の宝永年間(1704-1710年)には、高崎藩の藩主松平輝貞(大河内輝貞)が、藩領の井野川・榛名白川流域11村の水利のために岡上用水から水を引こうとして、岡崎の住民と争いになったという記録がある。岡崎側の住民の申し立てでは、火山灰地に築かれた岡上用水は漏水も多く、わざわざ用水管理のために2名を専従させていること、分水を行うと田畑の用水のみならず百姓600名と馬匹150頭あまりの飲用水も不足することなどから、分水をする余裕はないとのことだった。この時は幕府評定所の裁定によって引水の許可が出たものの、高崎藩側が引水のための樋口を設置してよいのは沼尾川の流出口よりも1尺7寸(約51センチメートル)高い位置と定めた。すなわち、沼尾川へ湖水が流出するよりも50センチほど榛名湖の水位が高い、水の余剰がある場合に限られるということになる。さらに、取水は田植えの時期の30日間に限るとした。 高崎藩ではこの裁可を得て早速工事に取り掛かったのだが、磨墨(するす)峠を抜けるトンネル掘削に失敗して工事が難航し、しかも完成しても導水できるのは剰余水のみで効果が小さい。そのうち藩主が転封になってしまい、完成しないまま工事は放棄された。磨墨峠には当時の隧道跡が洞窟となっているほか、磨墨峠の南にある松之沢峠付近には当時の遺構が残されており、藩主の官名(松平右京亮輝貞)から「右京の無駄堀」「右京の馬鹿堀」「右京の泣き堀」と呼ばれている。 明治時代の中頃になって、榛名湖の水を榛名山南山麓の灌漑に利用する計画がもちあがった。1901年(明治34年)に長野堰の利水組合での決議が行われ、計画が具体化した。この計画では、榛名湖の北にある沼尾川への流出口に水門を作って湖水が沼尾川へ流れないようにして、反対側の南湖岸に新しく水門と水路を設け、榛名山外輪山の南側にある天神峠(標高1,121メートル)の下に水路用のトンネルを穿ち、榛名川へ湖水を流そうというものであった。 しかしもともと沼尾川の水を灌漑用に利用していた榛名山北麓の地域(東村の岡崎地区)からはこの事業に反対意見が出された。群馬県の仲裁によって計画が修正され、北の沼尾川への水門は、南の榛名川への水門よりも低い位置に設置することになり、その差は宝永年間の取り決めに基づき1尺7寸(約51センチメートル)と定められた。また、すべての工事費用は南山麓の長野堰水利組合側で負担することとした。 こうして1903年(明治36年)に事業許可が下り、工事が始まった。先に沼尾川の水門が建設されて川が堰き止められたことで、榛名湖の水嵩は数メートル上昇した。南側のトンネル掘削工事には3ヶ月を要した。工事は1903年(明治36年)に完成し、実際に水門をあけて長野堰側への取水が始まったのは翌1904年(明治37年)からである。 南側への水門は、普段は閉じられている。農期の渇水時期になると、1週間から2週間のあいだ、水門を開いて送水を行う。このほか特別な干魃の際には、北麓側の承認を受けて水門を開くことが認められている。これにより榛名湖の水位は季節によって2メートルあまりも変動するようになった。
※この「榛名湖の南の水門」の解説は、「沼尾川 (榛名山)」の解説の一部です。
「榛名湖の南の水門」を含む「沼尾川 (榛名山)」の記事については、「沼尾川 (榛名山)」の概要を参照ください。
- 榛名湖の南の水門のページへのリンク