松平頼方領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 00:40 UTC 版)
@media all and (max-width:720px){body.skin-minerva .mw-parser-output div.mw-graph{min-width:auto!important;max-width:100%;overflow-x:auto;overflow-y:visible}}.mw-parser-output .mw-graph-img{width:inherit;height:inherit} [全画面表示] 関連地図(福井県北東部) 元禄10年(1697年)4月11日、5代将軍徳川綱吉が紀州藩邸を訪問した際、紀州藩2代藩主徳川光貞の三男・松平頼職(18歳。後の紀州藩4代藩主徳川頼職)と、四男・松平頼方(14歳。後の8代将軍徳川吉宗)にそれぞれ越前国内で3万石ずつが与えられ、大名として取り立てられた。 兄の頼職に与えられたのは丹生郡内63か村(高森藩)、弟の頼方に与えられたのは丹生郡・坂井郡内45か村である。頼職・頼方に与えられた領知を検分するため、紀州藩から神谷与一右衛門と大畑才蔵が派遣され、両名は丹生郡笹谷村(現在の福井市笹谷町)と北山村(現在の越前市北山町)を拠点として、7月から8月にかけて巡見を行った。その報告に基づき、頼方領の陣屋は下糸生村の一地区(垣内。枝郷とも説明される)である葛野に置くことが決定された。 宝永2年(1705年)6月、頼職が本家である紀州徳川家の家督を継ぐことになり、高森藩は廃藩となった(高森藩には同年10月に松平宗長が2万石で入る)。『角川地名大辞典』によれば、旧高森藩領のうち1万石が頼方に加増され、葛野藩は都合4万石となったとあるが、『福井県史』によれば加増はなく、葛野藩は3万石のままである。紀州藩主となった頼職も同年9月に死去し、頼方が紀州家の家督を継ぐこととなった。これにより葛野藩は廃藩となった。『徳川実記』では「紀伊主税頭頼方朝臣宗家をつがれしかば、願たまふまゝに、これまでの所領三万石幷に青山の邸地収公せらる」とある。
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