内紛の前兆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/19 06:41 UTC 版)
武田宗家では明応元年(1491年)に信昌・信縄間で家督争いがおこり、信縄が勝って信昌を隠居させる事件が起きていた。このため延徳4年(1492年)6月に武田信縄、武田信昌・油川信恵父子の間で家督をめぐる内訌が発生する(『勝山記』『王代記』『塩山向嶽禅庵小年代記』)。この争いは信昌・信恵側が優位に立ち、信縄は明応2年(1493年)の段階で劣勢にあった(『勝山記』)。しかし信縄は勢力を盛り返し、明応3年(1494年)3月26日に信恵軍に大勝し、信恵を支持する有力者の多くを戦死させた(『勝山記』『一蓮寺過去帳』)。これにより信縄と信昌・信恵の争いは両者共に膠着状態となった。 同時期、伊豆の堀越公方家では足利政知が死去し、子の茶々丸の相続により北条早雲が伊豆に侵攻し、敗れた茶々丸は伊豆から甲斐へと落ち延びていた。このため今川氏親・早雲による甲斐侵攻が行なわれている。このような事態のため、明応7年(1498年)に起こった大地震を契機として信縄と信昌・信恵との間で和睦が成立した。この和睦により、信昌は信縄の家督相続を事実上承認し、以後武田宗家は隠居の信昌・当主の信縄による共同統治により運営が行なわれている。 永正2年(1505年)9月16日に信昌が死去。2年後の2月14日には信縄が死去し、宗家の家督は信縄の嫡子で僅か14歳の信虎が相続する。このような事態を見てか、信恵は弟の岩手縄美や栗原昌種、河村重家、小山田弥太郎(信恵の従兄弟)、工藤氏、上条彦七郎、加藤氏らと結んで挙兵し、明応期に結ばれた和約は破綻した。
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