内紛における郭図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:18 UTC 版)
審配が忠義を尽くして壮絶な最期を遂げたことと、官渡の戦いにおける郭図の所業の悪さが原因で、一般には袁氏内紛でも郭図が悪者とされがちである。 しかし、袁紹による明確な後継者指名がなかったにもかかわらず、審配らは袁紹の生前の寵愛を理由に袁尚を推し、『後漢書』袁紹伝によれば袁紹の遺命まで偽造したとされる。また同伝によれば、衆目は年長の袁譚後継支持であったとしている。 もっとも、その後の対応では、郭図も審配憎しで袁氏兄弟の対立を煽っており、袁譚に袁尚への先制攻撃を嗾けるなど、依然として問題行動が多かった。 『後漢書』袁紹伝では、露骨に名指しで書かれている。荊州の劉表が、袁氏内紛に際し王粲に和解の手紙を書かせたが、そこには「変事は辛評・郭図より起こされ、災禍は同胞にもたらされたと聞いております」と記されている。また審配も袁譚に手紙を書き、そこにも「どうして凶悪な臣下郭図などに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉で媚びへつらわせ、ご親好を混乱させるのですか」と記している。
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