キリスト教国の周旋と対イスラム教活動とは? わかりやすく解説

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キリスト教国の周旋と対イスラム教活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 10:19 UTC 版)

ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ」の記事における「キリスト教国の周旋と対イスラム教活動」の解説

1170年頃、ナバラ王国プエンテ・ラ・レイナ下級貴族の家に生まれる。1208年にオスマ司教となり、翌1209年トレド大司教昇格以後1247年亡くなるまで在任カスティーリャトレド発展尽くすことになる。トレド大司教スペイン首座大司教として他の大司教対す権限行使ローマ教皇から与えられ歴代大司教はそれに対す抗議戦っていたが、ラダはこの権限守り通してトレド富裕な教区にするために尽くしイスラム教との戦いレコンキスタ)や征服した領土発展費やしたラダトレド大司教になった時期レコンキスタキリスト教諸国が相争う状態で停滞、これを憂いラダ諸国間でイスラム教打倒団結呼びかけたが効果はなかった。しかし教皇インノケンティウス3世後ろ盾を得ると調停続け1209年ナバラ王サンチョ7世アラゴン王ペドロ2世を、カスティーリャ王アルフォンソ8世レオン王アルフォンソ9世それぞれ和睦させた。翌1210年には教皇命令アルフォンソ8世へのイスラム教ムワッヒド朝攻撃促す一方アルフォンソ8世側近となって彼の命令受け取り1211年から1212年にかけてキリスト教国間の共同戦線構築使命帯びて各国訪問ローマへ行って教皇からキリスト教国間の休戦命令受け取ったフランス訪れ国王フィリップ2世協力得られなかったが、南仏十字軍勧誘成功し多く司教騎士たちがカスティーリャ集結していった。一方で大学創設にも関わっており、アルフォンソ8世勧めてパレンシア大学英語版)を創設させた。 1212年7月16日ナバス・デ・トロサの戦いにも従軍アルフォンソ8世と共に中央後備の軍に入った戦闘中ムワッヒド軍の攻撃一時キリスト教連合軍が崩れるが、うろたえたアルフォンソ8世なだめたおかげで立ち直ったアルフォンソ8世始め連合軍反撃勝利した。後に書いたゴート史』でムスリム20万人敗死させたと過剰に勝利を称える一方で参加者フランス人たちが戦う前に帰国したことなどを批判している。

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