キリスト教国のもとで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 03:35 UTC 版)
「バレンシア王国」の記事における「キリスト教国のもとで」の解説
最新の歴史学論では、カスティーリャ王国によるレコンキスタの努力と似た様相をもったバレンシア征服だと見られている。新たな領土を獲得するために王が率いた戦いであり、貴族へ与える封土が可能なだけただで手に入れられたのである。新しい領土は国王に対して責任を負うだけであり、国王対貴族の戦いで王権を大きくし強力にするものだった。それは中世スペインにおける事象の明らかな動向となり(グラナダ王国降伏と、ユダヤ人追放がレコンキスタの最終的な出来事で、このために1492年がレコンキスタ終了の年とされるのである)、スペイン・ハプスブルク朝時代に入る。 新王国の人口は事実上イスラム教徒が優勢で、しばしば反乱を起こされた。マグリブでモリスコ救出目的のためにどんな所定のイスラム軍も集められると受け取られかねない、深刻な脅威であった。 君主がどんな貴族からも独立した存在であるよう努めた過程は、貴族がまだ権力の大部分を保有していたためたやすくはなく、貴族は権力をできるだけ王に渡さず保持するようにしていた。この事実が、新たに獲得した領土でのキリスト教徒植民を運命づけた。最終的にアラゴン貴族にはいくつかの領土を与えられたがそれは内陸だけで、ほとんどが山地と王国の人口過疎地であった。アラゴン王は、海岸平野にある肥沃で人口密度のある領土を保持していた。そこにある都市では自由市民と初期のブルジョワ階級に対して、民法と地元行政を調整した特権または勅許状が与えられ、それは常に王が責任を負っていた。 内陸部は、ほとんどがアラゴン語話者、ピレネー・モサラベ語族に属するイタロ・西ロマンス語話者によって再植民された。西イタロ語は比較的モサラベ語とカスティーリャ語に近く、アラゴン語のような近隣のロマンス諸語が加わったことでスペイン語に発展していった。 海岸部は、ほとんどがカタルーニャ君主国出身のカタルーニャ語話者が再植民した。カタルーニャ語はイベロ・ロマンス語の一部である。移民たちのこれらの言語がカタルーニャ語の特徴的な変形であるバレンシア語に発展し、カタルーニャ領域内での独自の公用語となった。 もう一つの推進力は、最新の歴史学論では控えめに言われているが、キリスト教信仰であった。ローマ教皇グレゴリウス9世はバレンシア征服を十字軍と認めた。そして、ジャウマ1世は信仰篤い王として知られていた。
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