キリスト教史学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:03 UTC 版)
キリスト教と日本国内の宗教の関係は、宣教初期、宣教中期、再宣教の三度の時期に区分されるが、宣教初期においては日本国内において西欧文明のもたらす利を優先したことによりスムーズな展開が行われていた。しかしながら、宣教中期においては聖書原理主義に基く、社会批判を得て、封建制度の根幹をなしている身分制や階級序列の否定が行われたため、豊臣秀吉から徳川家光の時代にかけて厳しい弾圧が行われた。特に大乗仏教においては、一仏信仰によって、多くの信徒を固定する制度(檀家制度)との衝突から、明治時代においては仏教集団との対立が深まったためと考えられている。 神道との関係性においては、本来神仏習合という概念が存在しないため(隠れキリシタンでは、聖母マリアを天照大御神とし、イエス・キリストを大国主とする信仰は存在した)、「一神教か?、多神教か?」の議論による事で宗教学的には区分される。しかしながら、統治者との立場からは、別の神の存在は邪魔だったため、宣教等において極めて厳しい状態が続いていたと推定されている。そのため、日本におけるキリスト教はナショナリスティックな立場となり、教派内においても事件や論争などが生じたのであろうと推定されている。 キリスト教史学上では、日本国内での現象であり、インターナショナルな視点では記述が見当たらない。例外は、カトリック福音宣教省の訓令「祖国に対する信者のつとめ」である。 文部省(文化庁)の見解によれば、キリスト教団は神道を最初から宗教という考え方によっており、キリスト教団としては自らの教団及び信徒を守るために国家宗教政策に従ったとされている。 なぜならば、右大臣岩倉具視、外務卿沢宣嘉らに1870年末四カ国(イギリス・フランス・ロシア・アメリカ)公使が面会した際に、岩倉は ともかく天子の教えを奉じないから罰するので、それ以外に理由はない。キリシタンだからということは、つまり皇国の教えを奉じないということ。神道の教えでは、天子は太神(天照大神)の御裔であり、天子の政権は、「神」から出ている。しかし、耶蘇は、この教えを奉じるなと教える。浦上の太神宮に彼らが参拝しないのは、天子を軽蔑するものである と語ったと記録されている。 政府部内での岩倉は最も強く神道国教主義を代表している。1868年の春に長崎総督府が、教徒への対応策の手始めに浦上村に太神宮を建て始めたのは、単に彼らを試みるためではなく、太神宮の崇敬へと彼らの心を転じさせようとする考えからであった。 1930年5月15日には、文部省宗教制度調査会に基督教連盟から「神社問題に関する進言」が提示されており まづ崇敬の意義対象を明らかにして教派神道との混淆を匡し 祭祀祭式の宗教的内容を除き 且つ祈願、祈祷および神社護符の授与、又は葬儀の執行その他一切の宗教的行為を禁止し 直接的にも間接的にもその宗教行為を強制せしめない ならば、神社は非宗教であるとした。 ただし、「日本国内のキリスト教と神社非宗教論」でも触れるが、第二次世界大戦中においては、日本基督教団及びカトリック教団において政府との妥協により、「神社非宗教論」を採用していた時期も存在する。 第2バチカン公会議を経て、エキュメニズムの時代に入っており、過去の過ちに対する反省もあった。詳細は、第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白を参照の事。
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