キリスト教化とエジプト文明の「終焉」とは? わかりやすく解説

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キリスト教化とエジプト文明の「終焉」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)

エジプトの歴史」の記事における「キリスト教化とエジプト文明の「終焉」」の解説

コプト正教会」も参照 1世紀パレスチナ誕生したキリスト教エジプトにも伝播し、2世紀末までには根を下ろしたエジプトキリスト教は現在ではコプト正教会呼ばれ伝説では使徒ペトロ伝道同行した福音書記者マルコ起源持ちマルコ初代アレクサンドリア主教となったという。コプトという呼称ギリシア語アイギュプトス(Aigyptos、エジプト人)」のアラビア語読みである「キィプト(qibt)」に由来しコプト教会とは広義にはエジプト教会」のことである。エジプトでは、南部含め広い範囲早くから民衆の間にもキリスト教広まり最終的にエジプト住民大半キリスト教徒となったプトレマイオス朝時代から東地中海における文化・学問の中心であったエジプトアレクサンドリア教会は、初期キリスト教知的活動において中心的役割果たしアンティオキアローマなどと並ぶ有力教会としてキリスト教思想布教重要な役割を果たす教父たちを輩出した。それらの中には膨大な著作残し、広い範囲活動したオリゲネスや、キリスト教世界二分する大論争巻き起こしたアリウス派発起人となったアリウスアレイオス)、そして反アリウス派議論主導するアタナシウスアタナシオス)など、個性溢れ人物たちが並ぶ。コンスタンティヌス1世帝(在位306年-337年)の時代ローマ帝国キリスト教公認され以降アリウス派と反アリウス派論争をはじめ、キリスト教内の権力闘争では、多く場面でエジプト教会アレクサンドリア主教中核的プレイヤーとして活動した。 このグレコ・ローマン期は概ね古代エジプト文明終焉時期位置付けられている。古代エジプト文明の「終焉」をどのように定義づけるのかは明確ではないが、多く通史叙述において古代エジプト時代それ以降時代区切りとして使用されている(叙述終了となる)出来事は、アレクサンドロス3世によるエジプトの征服王朝時代終了)、プトレマイオス朝滅亡ローマの支配開始、そしてキリスト教布教とそれに伴うエジプトの「宗教」の衰滅3つである。そして、どのような説明においても、エジプト古代以来信仰消滅超えてエジプト文明継続しているという描写がされることはない。当然、古代エジプト時代あらゆる要素文明とともに終焉迎えたわけではない例えコプト教会典礼使用されるコプト語古代エジプト語から発展した言語であり、16世紀から17世紀頃までは日常語として用いられていたし、その教会暦エジプト暦をほぼ引き継いでおり現在でも使用されている。 しかし、エジプト文明特徴づけるいくつも要素がこの時代通じて消滅していった。古代以来独立した勢力としてのエジプトプトレマイオス朝滅亡とともに終了し以降ローマ帝国の一属州となった。それでも、ローマ皇帝たちの多くはなおエジプトにおいて伝統的なファラオ(王)」として表現されエジプト足を踏み入れることは滅多になかったものの、エジプト神々供物捧げ神殿整備行っていた。 だが、後期ローマ帝国における宗教的思想発展キリスト教普及とともに古代エジプト神々ラーアメンプタハオシリス等)は忘れ去られ行き伝統的な神殿勢力消滅していった。史上最後となるキリスト教徒迫害行ったディオクレティアヌス帝は303年退位し313年にはキリスト教ローマ帝国公認されコンスタンティヌス1世ローマ帝国唯一の支配者となって以降はただ1人例外除き全てのローマ皇帝キリスト教徒であった。彼らは「異教」の神殿封鎖し、その神々への儀式禁じていった。皇帝がもはや「ファラオ」として振る舞うことがなくなった後、エジプト神官たちはディオクレティアヌス帝の治世永久に続いているものと見なした。ディオクレティアヌスは「ファラオ」としてその王名記録されている最後の人物であり、現存する最後カルトゥーシュ340年の「ディオクレティアヌス治世57年」のものである。そしてフィラエ島発見された、2014年現在知られている限り最後ヒエログリフエジプト聖刻文字)の碑文には「ディオクレティアヌス治世110年394年8月24日)」のオシリス神誕生祭が記録されており、同じく最後デモティック民衆文字)の碑文は「ディオクレティアヌス治世169年452年)」に作成されたものである。これらが作成されフィラエ島イシス神殿エジプト最後の「多神教」の拠点であったが、これも遂にユスティニアヌス1世在位527年-565年治世下の西暦550年に公式に閉鎖された。

※この「キリスト教化とエジプト文明の「終焉」」の解説は、「エジプトの歴史」の解説の一部です。
「キリスト教化とエジプト文明の「終焉」」を含む「エジプトの歴史」の記事については、「エジプトの歴史」の概要を参照ください。

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