キリスト教化とエジプト文明の「終焉」
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「エジプトの歴史」の記事における「キリスト教化とエジプト文明の「終焉」」の解説
「コプト正教会」も参照 1世紀にパレスチナで誕生したキリスト教はエジプトにも伝播し、2世紀末までには根を下ろした。エジプトのキリスト教は現在ではコプト正教会と呼ばれ、伝説では使徒ペトロの伝道に同行した福音書記者マルコに起源を持ち、マルコが初代アレクサンドリア主教となったという。コプトという呼称はギリシア語「アイギュプトス(Aigyptos、エジプト人)」のアラビア語読みである「キィプト(qibt)」に由来し、コプト教会とは広義には「エジプト人教会」のことである。エジプトでは、南部を含め広い範囲で早くから民衆の間にもキリスト教が広まり、最終的にエジプトの住民が大半がキリスト教徒となった。 プトレマイオス朝時代から東地中海における文化・学問の中心であったエジプトのアレクサンドリアの教会は、初期キリスト教の知的活動において中心的役割を果たし、アンティオキア、ローマなどと並ぶ有力教会としてキリスト教思想と布教に重要な役割を果たす教父たちを輩出した。それらの中には膨大な著作を残し、広い範囲で活動したオリゲネスや、キリスト教世界を二分する大論争を巻き起こしたアリウス派の発起人となったアリウス(アレイオス)、そして反アリウス派の議論を主導するアタナシウス(アタナシオス)など、個性溢れる人物たちが並ぶ。コンスタンティヌス1世帝(在位:306年-337年)の時代にローマ帝国でキリスト教が公認されて以降、アリウス派と反アリウス派の論争をはじめ、キリスト教内の権力闘争では、多くの場面でエジプトの教会とアレクサンドリア主教が中核的プレイヤーとして活動した。 このグレコ・ローマン期は概ね古代エジプト文明の終焉の時期に位置付けられている。古代エジプト文明の「終焉」をどのように定義づけるのかは明確ではないが、多くの通史的叙述において古代エジプト時代とそれ以降の時代の区切りとして使用されている(叙述の終了となる)出来事は、アレクサンドロス3世によるエジプトの征服(王朝時代の終了)、プトレマイオス朝の滅亡とローマの支配の開始、そしてキリスト教の布教とそれに伴うエジプトの「宗教」の衰滅の3つである。そして、どのような説明においても、エジプトの古代以来の信仰の消滅を超えてエジプト文明を継続しているという描写がされることはない。当然、古代エジプト時代のあらゆる要素が文明とともに終焉を迎えたわけではない。例えばコプト教会の典礼で使用されるコプト語は古代エジプト語から発展した言語であり、16世紀から17世紀頃までは日常語として用いられていたし、その教会暦はエジプト暦をほぼ引き継いでおり現在でも使用されている。 しかし、エジプト文明を特徴づけるいくつもの要素がこの時代を通じて消滅していった。古代以来の独立した勢力としてのエジプトはプトレマイオス朝の滅亡とともに終了し、以降はローマ帝国の一属州となった。それでも、ローマの皇帝たちの多くはなおエジプトにおいては伝統的な「ファラオ(王)」として表現され、エジプトに足を踏み入れることは滅多になかったものの、エジプトの神々に供物を捧げ、神殿の整備も行っていた。 だが、後期ローマ帝国における宗教的思想の発展やキリスト教の普及とともに古代エジプトの神々(ラー、アメン、プタハ、オシリス等)は忘れ去られて行き、伝統的な神殿の勢力も消滅していった。史上最後となるキリスト教徒迫害を行ったディオクレティアヌス帝は303年に退位し、313年にはキリスト教がローマ帝国で公認され、コンスタンティヌス1世がローマ帝国の唯一の支配者となって以降はただ1人の例外を除き全てのローマ皇帝がキリスト教徒であった。彼らは「異教」の神殿を封鎖し、その神々への儀式を禁じていった。皇帝がもはや「ファラオ」として振る舞うことがなくなった後、エジプトの神官たちはディオクレティアヌス帝の治世が永久に続いているものと見なした。ディオクレティアヌスは「ファラオ」としてその王名が記録されている最後の人物であり、現存する最後のカルトゥーシュは340年の「ディオクレティアヌスの治世57年」のものである。そしてフィラエ島で発見された、2014年現在知られている限り最後のヒエログリフ(エジプト聖刻文字)の碑文には「ディオクレティアヌスの治世110年(394年8月24日)」のオシリス神誕生祭が記録されており、同じく最後のデモティック(民衆文字)の碑文は「ディオクレティアヌスの治世169年(452年)」に作成されたものである。これらが作成されたフィラエ島のイシス神殿はエジプト最後の「多神教」の拠点であったが、これも遂にユスティニアヌス1世(在位:527年-565年)治世下の西暦550年に公式に閉鎖された。
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