キリスト教勢力の分裂とマリーン朝との戦いとは? わかりやすく解説

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キリスト教勢力の分裂とマリーン朝との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)

レコンキスタ」の記事における「キリスト教勢力の分裂とマリーン朝との戦い」の解説

ナスル朝が約250年わたって存続し理由は、彼ら自身生存戦略もちろんのこと敵対者であるキリスト教勢力分裂していたのも大きな原因とされている。カタルーニャアラゴンバレンシアバレアレス諸島制圧したことによって、地中海への進出を狙うようになった大西洋開けたポルトガル王国は、海洋立国目指しアフリカ北海方面乗り出していた。ナバーラ王国そもそもイスラム勢力隣接しておらず、カスティーリャアラゴンの間で生き残り必死だった。つまり、この時点ナスル朝と本気で対峙していたのはカスティーリャ王国けだった。 そのカスティーリャにしたところで、決して他を圧するほど強大な存在ではなかった。1212年から1251年の間に、カスティーリャ版図はほぼ倍増していたが、このため国内統治困難になっていた。また、この時代王権それほど強固ではなくレオントレドコルドバといった旧王国大きな発言力有していたため、政治的に分裂しやすかったつまるところカスティーリャ王国とは、1人の王の下に統一され王国ではなく諸国家の連合体にすぎなかった。国内政治的不統一は、後継者争い権力争い容易に結びつきカスティーリャでは内紛絶えなかった。 1260年カスティーリャ視線グラナダではなく北アフリカ向いていた。カスティーリャ王アルフォンソ10世はムワッヒド朝弱体化好機見てジブラルタル海峡渡りモロッコ侵攻した。同じ頃、北アフリカではマリーン朝勢力拡大しつつあった。両者挟撃されるになったムワッヒド朝急激に衰退し1269年マリーン朝によって首都マラケシュ占拠され滅亡した。これによって、カスティーリャマリーン朝直接対峙することとなった1275年マリーン朝イベリア半島に逆侵攻し戦線北アフリカイベリア両方広がった両者戦い14世紀半ばまで慢性的に続き最終的にマリーン朝内紛もあって、カスティーリャ優勢下で終わったマリーン朝による侵攻は、ムスリム勢力による最後イベリア侵攻となった

※この「キリスト教勢力の分裂とマリーン朝との戦い」の解説は、「レコンキスタ」の解説の一部です。
「キリスト教勢力の分裂とマリーン朝との戦い」を含む「レコンキスタ」の記事については、「レコンキスタ」の概要を参照ください。

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