キリスト教勢力の分裂とマリーン朝との戦い
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「レコンキスタ」の記事における「キリスト教勢力の分裂とマリーン朝との戦い」の解説
ナスル朝が約250年にわたって存続した理由は、彼ら自身の生存戦略はもちろんのこと、敵対者であるキリスト教勢力が分裂していたのも大きな原因とされている。カタルーニャ=アラゴンはバレンシアとバレアレス諸島を制圧したことによって、地中海への進出を狙うようになった。大西洋に開けたポルトガル王国は、海洋立国を目指してアフリカや北海方面へ乗り出していた。ナバーラ王国はそもそもイスラム勢力と隣接しておらず、カスティーリャとアラゴンの間で生き残りに必死だった。つまり、この時点でナスル朝と本気で対峙していたのはカスティーリャ王国だけだった。 そのカスティーリャにしたところで、決して他を圧するほど強大な存在ではなかった。1212年から1251年の間に、カスティーリャの版図はほぼ倍増していたが、このために国内の統治は困難になっていた。また、この時代の王権はそれほど強固ではなく、レオンやトレド、コルドバといった旧王国が大きな発言力を有していたため、政治的に分裂しやすかった。つまるところ、カスティーリャ王国とは、1人の王の下に統一された王国ではなく、諸国家の連合体にすぎなかった。国内の政治的不統一は、後継者争いや権力争いと容易に結びつき、カスティーリャでは内紛が絶えなかった。 1260年、カスティーリャの視線はグラナダではなく北アフリカに向いていた。カスティーリャ王アルフォンソ10世はムワッヒド朝の弱体化を好機と見て、ジブラルタル海峡を渡りモロッコへ侵攻した。同じ頃、北アフリカではマリーン朝が勢力を拡大しつつあった。両者に挟撃される形になったムワッヒド朝は急激に衰退し、1269年、マリーン朝によって首都マラケシュを占拠されて滅亡した。これによって、カスティーリャとマリーン朝は直接対峙することとなった。1275年、マリーン朝はイベリア半島に逆侵攻し、戦線は北アフリカとイベリアの両方に広がった。両者の戦いは14世紀半ばまで慢性的に続き、最終的にはマリーン朝の内紛もあって、カスティーリャの優勢下で終わった。マリーン朝による侵攻は、ムスリム勢力による最後のイベリア侵攻となった。
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