キリスト教勢力の侵略と反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 06:18 UTC 版)
「ムハンマド4世 (ナスル朝)」の記事における「キリスト教勢力の侵略と反撃」の解説
ローマ教皇ヨハネス22世(1316年 - 1334年)が1330年2月にナスル朝に対する戦争を十字軍であると宣言し、これに続いてアルフォンス4世がナスル朝の国境地帯へ侵入するために500人の騎士を派遣した。一方でアルフォンソ11世は1330年7月にコルドバから自ら軍隊を率いて進軍した。カスティーリャ軍は8月7日にテバ(英語版)の要塞を包囲し、ウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーが率いる総勢6,000人のナスル朝軍と戦った。結果はナスル朝側の敗北に終わり、要塞は8月30日に降伏した。ウスマーンは同じ年にマラガで死去し、アル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの司令官の地位は息子のアブー・サービト・アーミルに引き継がれた。その一方でアルフォンソ11世とは独立して行動していた十字軍がナスル朝の農村地帯を略奪し、深刻な食糧不足を引き起こしたことで、ムハンマド4世は和平を求める姿勢に傾いた。そして平和条約が1331年2月19日にセビーリャで合意に達し、条約は4年間継続されることになった。ムハンマド4世は毎年カスティーリャへ貢納金を支払い、アルフォンソ11世に敬意を表するために自身の代理人を派遣することに同意した。また、条約の一部として、カスティーリャはナスル朝の食糧不足を緩和するために小麦と家畜をナスル朝へ輸出することを認めた。一方でアラゴンのアルフォンス4世は、ムハンマド4世の要請にもかかわらず条約への参加を拒否した。 しかしながら、アルフォンソ11世はすぐにナスル朝への食糧輸出を停止することで停戦時の合意を破った。その一方でナスル朝とアラゴンの間では戦争状態が続いた。ムハンマド4世はアリカンテ周辺の地域へ侵入するためにアブー・ヌアイム・リドワーンが率いる軍隊を派遣した。ナスル朝軍は1331年10月18日にグアルダマール・デル・セグーラ(英語版)を略奪し、周辺の農村地帯を襲撃したのち、捕虜に加えてナスル朝の軍隊に加わることを決めた400人のアラゴンのイスラーム教徒と共に帰還した。リドワーンの軍隊は1332年4月にアラゴンへ戻り、エルチェへ5日間包囲攻撃を加えた。カスティーリャの条約違反を認識し、自国の領土に対する継続的な脅威を考慮したムハンマド4世は、1331年8月にマリーン朝のスルターンでアブー・サイード・ウスマーン2世の後継者であるアブル=ハサン・アリー(在位:1331年 - 1348年)に支援を求めた。そしてフェズの宮廷でアブル=ハサンと直接会うために同年9月7日にモロッコへ出発した。マリーン朝のスルターンは前向きな反応を示し、ナスル朝のイスラーム教徒を支援するために軍隊の派遣を約束するとともに贈り物を与えた。同様にムハンマド4世は反乱を起こしたカスティーリャの貴族であるフアン・マヌエルとも同盟を結ぼうとした。
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