キリスト教勢力に敗北、衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:49 UTC 版)
「ムワッヒド朝」の記事における「キリスト教勢力に敗北、衰退」の解説
ナースィルの治世もイフリーキヤとアンダルスの戦争にかかりきりで、1203年のマヨルカ島征服、1209年のガーニヤ族討伐でイフリーキヤは平定された。しかしアンダルスではキリスト教諸国の団結が進み、教皇インノケンティウス3世とトレド大司教(英語版)ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダが1209年までにナバラ・アラゴン・レオン・カスティーリャを和睦させ、カスティーリャを中心としたムワッヒド朝への十字軍結成を呼び掛け決戦への準備を整えていった。1209年にアルフォンソ8世が休戦を破りムワッヒド朝の国境を侵略したことにナースィルは抗議したが無視され、1211年に懲罰遠征を決意してアンダルスへ渡海、サルバティエラ城を落としてセビリアで越冬しつつモロッコからの援軍を召集した。アルフォンソ8世もペドロ2世・サンチョ7世の援軍およびフランスの参加者からなる十字軍を結集、1212年春までに両者は決戦に向けて軍勢を増やしていった。 7月16日、ナースィルのムワッヒド軍はコルドバの近郊でアルフォンソ8世らの十字軍に敗れ(ナバス・デ・トロサの戦い)、アンダルスでの支配力を失った。十字軍は戦後に流行した疫病と各都市のムワッヒド朝の総督たちの抵抗で引き上げたが、ムワッヒド朝の威信は失墜、マラケシュへ逃げ帰ったナースィルは翌1213年に死去した。息子のユースフ2世が後を継いだが、幼少の彼は地方総督やシャイフたちに政治を丸投げして、宮廷に引き籠り帝国を顧みなかった。 1224年、ユースフ2世が子供を残さず死ぬと後継者争いが勃発、次々とカリフを名乗る人物が続出しモロッコとアンダルスは内乱で都市の争奪戦が繰り広げられ、シャイフたちもカリフを擁立・暗殺して内乱を助長した。初めユースフ2世の大叔父アブドゥル・ワーヒド1世がシャイフに擁立されたが、甥でユースフ2世の叔父のムルシア総督アブドゥッラー・アーディルが反発してカリフを宣言、同年にアブドゥル・ワーヒド1世を見限り暗殺したシャイフたちに承認された。ところがセビリア総督アブー・ムハンマド・アル・バイヤーシー(スペイン語版)がカスティーリャ王(後にレオン王も兼任)フェルナンド3世と同盟を結び、彼の軍にアンダルスのアーディル派の都市を攻撃させた。この機に乗じてフェルナンド3世はレコンキスタを大きく前進させた一方、ムワッヒド朝はなす術も無くアンダルス諸都市を奪われたばかりか、バイヤーシーと兄弟のバレンシア総督アブー・ザイド(英語版)の離反も招いた。
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