キリスト教勢力との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 06:40 UTC 版)
「カラーウーン」の記事における「キリスト教勢力との戦い」の解説
西欧諸国から聖地奪還の熱気が冷めていく中、1282年にカラーウーンはエルサレム王国、聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団と協議し、シドンからカイサリアに至る沿岸地帯の分割と休戦協定の延長を決定した。さらに1285年にティルスの女領主とも休戦協定を結んだ。西欧諸国から十字軍勢力への支援を不安視したカラーウーンはシチリア王国、ジェノヴァ共和国と同盟を結んだ。 休戦協定の延長後、カラーウーンは中東に残る十字軍勢力の都市の中で協定の対象から除外されていた都市に攻撃を加えた。マムルーク朝は1285年に聖ヨハネ騎士団が領有するマルカブを占領した後、1287年4月末に交易港ラタキア(ラオディセ)を攻撃した。 さらにイスラム商人が危害を加えられたことを名分として、1289年3月17日にカラーウーンはトリポリの包囲を開始する。マムルーク軍は木製の櫓とカタパルトを投入し、地下にトンネルを掘り、城砦を攻撃した。同年4月26日にマムルーク軍はトリポリを攻略、住民を拉致・殺害し、町を破壊した。戦闘に従軍したハマーのアイユーブ朝の王族アブ・アル=フィダは、積み重なった死体の腐敗臭に辟易したことを書き残した。 トリポリ攻略後、カラーウーンはアッコンの十字軍勢力の要請に応じて和約を結び、休戦協定を延長した。しかし、イスラム教徒との間に共存関係が成立していたと考えていた中東のキリスト教勢力は、カラーウーンの徹底的な攻撃に衝撃を受けた。
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