プトレマイオス朝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 14:28 UTC 版)
「メンフィス (エジプト)」の記事における「プトレマイオス朝時代」の解説
紀元前332年、アレクサンドロス大王はプタハ神殿でファラオに即位し、ヘレニズム時代が始まった。彼の後継者の将軍プトレマイオス1世による支配が始まった後もメンフィスは重要な地位、特に宗教的な地位を維持した。アレクサンドロスがバビロンで死去(紀元前323年)すると、プトレマイオスは多大な苦労の上でアレクサンドロスの遺体を回収し、メンフィスに持ってきた。プトレマイオス1世は大王自身が公式にエジプトに埋葬を希望したのだと主張し、遺体をプタハ神殿の中心に運び込んで司祭たちに防腐処理を行わせた。マケドニア人の王達は慣例に従い、前任者を埋葬することで自らの王位の正統性を主張した。プトレマイオス2世はその後アレクサンドロスの石棺をアレクサンドリアに遷し、その埋葬のために王室の墓が建設された。墓の正確な場所は現在ではわからなくなっている。アイリアノスによれば、占い師アリスタンドロス(英語版)はアレクサンドロスが横たわった地は「永久に幸福であり征服されることがない」と予言したという。 その後プトレマイオス朝が開かれると、その治世の間メンフィスは徐々に衰退した。プトレマイオス1世はサッカラにセラピスの教団を設立したが、セラピス信仰がエジプトに導入されたのはこれが最初であった。この時代、サッカラのセラペウムで詩人達の間(the Chamber of Poets)や神殿を飾る羨道(dromos)、そして多数のギリシア風建築を含む多くの建設事業が行われている。セラピス信仰はエジプトの国境を越えて広がったが、その栄光は後に彼の後継者によって建設されたアレクサンドリアの大セラペウム(英語版)の陰に隠れた。 紀元前216年と紀元前196年にそれぞれプトレマイオス4世とプトレマイオス5世によってメンフィス決議(英語版)が発布された。プタハ大司祭の後援とファラオの臨席の下で、当面の国の宗教政策を確立し、手数料と税の徴収を定めて新たな財政基盤を構築するために、そしてプトレマイオス朝の支配者に貢物を収めるために、王国の主要な聖職者からなる代表者が集まって教会会議(synod)を開いた。これらの法令は全ての人間が読めるようにするため3種類の文字(デモティック、ヒエログリフ、そしてギリシア語)で石碑に刻まれている。この中で最も有名な物はロゼッタ・ストーンであり、この碑文によって19世紀にエジプト文字の解読が可能となった。 この時代の葬儀に関する別の石碑がこの地で発見されている。それはプタハ大司祭の王朝とも言うべき、メンフィスの上級聖職者の系譜を伝えている。この家系はアレクサンドリアの王室との強い結びつきを維持していた。この2つの家門の関係は大司祭たちとプトレマイオス朝の王女たちとの婚姻によって更に強化された。
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