プトレマイオスの記載
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 20:39 UTC 版)
「マエス・ティティアノス」の記事における「プトレマイオスの記載」の解説
紀元2世紀アレクサンドリアの学者、クラウディオス・プトレマイオス(トレミー)の著書『地理学』には第1巻第11章に次のような言及があり、これがマエスについて現代のわれわれが知りうる一次情報のすべてである。 それにまた,商業活動を通じてこの道(引用注:シルクロード)が知られるようになったという事情もある。たとえば,親の代からの商人であるマエス,別名ティティアノスというマケドニア人がこの(引用注:石塔までの)路程を記録したと言われているが,セレス人の地に自ら赴いたわけではなく,配下の者を派遣したとされているのである。 —中務哲郎訳『プトレマイオス地理学』第1巻第11章第5-6節 クラウディオス・プトレマイオスが引用するテュロスのマリノスによると、マエスは「エウフラテスの渡し場」を超えてシルクロードをたどって「石塔(Λιθίνου Πύργου)」へ至り、また、配下の者を「セレス人の地」へ派遣したという。 『地理学』は、人間の住む世界(オイクーメネー)の自然や町の位置を緯度と経度で図表に描き出すことを目的としているが、その地理情報の多くを、この分野の先駆者であったテュロスのマリノスの著作及び蒐集した地理情報に依拠している。その中でも、ユーフラテス川を渡って以東の町の名前やそこへ至るまでの里程については、マエスからマリノスにもたらされた報告に基づいている。しかしながら、マリノスの著作が現在では失われてしまったので、マエスの詳細な人物伝については伝わっていない。 なお、上記引用のプトレマイオスによるマエスについての言及は、マリノスが導き出したオイクーメネーの東西方向の広さが縮小されなければならないという文脈でなされている。マリノスが算出した距離は、マエスのような実際には自分で行っていない商人が報告した行程に基づくものであるから、というのがその理由である。プトレマイオスは特に石塔以東の経度の広がりについては、石塔からセレス人の地の首府への7ヶ月行程36,200スタディオンの距離の報告が、7ヶ月の間記録し語り継ぐに値するものが何もなかったとすること自体をもって大法螺であろうと説く。
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