プトレマイオス8世の追放後
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「アレクサンドリア図書館」の記事における「プトレマイオス8世の追放後」の解説
プトレマイオス8世によるアレクサンドリアからの学者たちの追放はヘレニズム時代の学問の歴史の転換点となった。アレクサンドリア図書館で研究していた学者たちと彼らの学生は研究と著作活動を続けたが、彼らの多くはもはやその研究においてアレクサンドリア図書館と関係を持っていなかった。アレクサンドリアの学者たちのディアスポラが起きると、学者たちは東地中海全域に分散し、後には西地中海へも同様に移動した。アリスタルコスの学生、ディオニュシオス・トラクス(前170年頃生-前90年頃死)はギリシャのロドス島に学校を設立した。ディオニュソス・タラクスは明確かつ効果的に話すための初のギリシア語の文法書を書いた。この本は12世紀に至るまでギリシア語を学ぶ学生たちの主たる文法教科書として使用され続けた。ローマ人はこれを文法的に正しい執筆の基準として用い、その基本的な書式は今日においても多くの言語の文法指南書の基礎として残っている。アリスタルコスの別の弟子、アテナイのアポロドロス(前180年頃生-前110年頃死)はアレクサンドリアの有力なライバルであるペルガモンに行き、そこで教育と研究を行った。歴史家バルカのメネクレスは、このアレクサンドリアからのディアスポラについて、アレクサンドリアが全てのギリシア人と、同じく全てのバルバロイ(蛮族)の教師となった、という皮肉を言った。 その間、アレクサンドリアでは前2世紀半ば以降から、プトレマイオス朝のエジプト支配がそれまでよりも不安定化した。増大する社会不安と共に、その他の重要な政治的・経済的問題に直面し、後期プトレマイオス朝の王たちは、前任者たちが持っていた水準でアレクサンドリア図書館とムセイオンに対する関心を注ぐことはなかった。図書館自体と図書館長の地位は共に低下した。後期プトレマイオス朝の幾人もの王が、忠実な支持者に対する単なる褒章として図書館長の地位を使用した。プトレマイオス8世は自身の近衛兵であったキュダス(Cydas)という名の人物を図書館長として任命し、プトレマイオス9世(在位:前88年-前81年)はこの地位を自身の政治的支持者たちに与えたと言われている。最終的にアレクサンドリアの図書館長の地位はかつての名声を喪失し、同時代の著作家でさえも個々の図書館長の任期に興味を持たなくなった。 ギリシアの学問は前1世紀頃に大々的に変化した。この頃までに、主だった古典詩のテキストは標準化されており、古代ギリシアの主要な著作家全ての文章について広範な注解が既に制作されるに至っていた。このため、学者達がこれらのテキストに独自の研究を行う余地はほとんど無くなっていた。多くの学者たちが、彼ら自身の独創性を発揮することなく、アレクサンドリアの学者たちがそれまでに作成していた注釈の総括と手直しをはじめた。他の学者たちはここから分岐し、カリマコスやロドスのアポロニオスのようなアレクサンドリアの学者たちを含む古典期以降の詩作についての注解を書き始めた。この間、前1世紀にアレクサンドリアの学問はディオニュソス・タラクスの学生アミソスのテュランニオン(英語版)(前100年頃生-前25年頃死)によっておそらくローマに導入された。
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