キリスト教哲学の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 02:32 UTC 版)
「キエティスム」の記事における「キリスト教哲学の起源」の解説
穏やかな静寂の状態、あるいはアタラクシアの状態は、エピクロスやストア派、あるいは皇帝マルクス・アウレリウスのような古代ローマの信奉者たちによって、望ましい心の状態と見なされていた。キエティスムは、仏教で言う涅槃(ニルヴァーナ)の境地と比較されてきた。罪のない状態、神との合一の達成の可能性は、ローマ・カトリック教会によって否定されている。 ヴィエンヌ公会議(1311年-1312年)で非難された「間違い」の主張とは、以下の通りである。すなわち、 現世における人間の生は、完全に罪のない状態になるに従って、相当に完璧なレベルに到達しうるということ。 また、断食あるいは祈りは必要ないが、何であれ切望するならば容易に「完璧」に到達しうるということ(これは、南フランスとカタルーニャのカタリ派やアルビ派との関係を暗に示唆する)。 さらには、彼らはいかなる人間の権威にも従わず、あるいは、教会の教えにも拘束されていないということ。 フラティチェリ(英語版)の側では個人の自律に関する同様の主張が、1317年、ローマ教皇ヨハネス22世によって激しい糾弾にさらされた。1329年、同教皇はマイスター・エックハルトの誤りの中にある、パンがキリストの肉体に変わったという秘蹟(→「化体説」の項を参照)と同様に、我々は総合的に神へと変容するのだという主張、および、内なる行動の価値―これらは持続的に我々に与えられている神格によって造られたとされる―を法的に禁じた。 キエティスムは、偉大な16世紀のスペイン神秘家たち、すなわち、アビラのテレサや十字架のヨハネらの流れの中で、さらなる発展を遂げた。その流れにおける最終的な正統派カトリックの擁護者は、ミゲル・デ・モリノスであった。彼は、カトリック百科事典によって、キエティスムの創始者とされた。17世紀のフランスにおけるキエティスム運動の主唱者は、モリノスの文通相手であり、多くの著作活動を行った作家ギュイヨン夫人であった。彼女はルイ14世治世下の裁判で、マントノン夫人や大司教フェヌロンのカトリック支配下にある支持者たちを改宗させ、大きな影響を与えた。 モリノスとキエティスムの教義は、最終的には教皇インノケンティウス11世の1687年の教令「チェレスティス・パストル(Coelestis Pastor)」の中で非難された。フランスの聖職者委員会はギュイヨン夫人の作品を調査して大部分を許し難いものとし、政府は彼女をまず修道院に監禁し、次にバスティーユ監獄で禁固にした。 フェヌロンがボシュエとの出版論争において猛烈な擁護を行った後、1699年、インノケンティウス12世の教皇インノケンティウス12世は、フェヌロンの著書Maxims of the Saintsを発禁処分にした。依然として残ったイタリアのキエティストたちに対する宗教裁判の推進は、18世紀まで続いた。
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