教皇の呼びかけとラス・ナバス・デ・トロサの戦い
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「レコンキスタ」の記事における「教皇の呼びかけとラス・ナバス・デ・トロサの戦い」の解説
12世紀後半まで、キリスト教諸国とムワッヒド朝の戦いはほぼ互角といえた。キリスト教諸国はそれぞれの勢力拡張に重点を置き、統一戦線を張って戦おうとはしなかった。ムワッヒド朝も、本拠地が北アフリカであることから東方への拡張を主眼としており、イベリア半島にはそれほど戦力を割いていなかった。このような両勢力の事情から、決定的な局面はなかなか訪れなかった。 しかし、1184年にヤアクーブ・マンスールが即位すると、ムワッヒド朝は積極策に転じた。1195年、アラルコスの戦いでカスティーリャ王アルフォンソ8世の軍を破り、1197年にはマドリード、トレドを攻撃し、キリスト教勢力を圧迫した。イベリア半島の状勢はムワッヒド朝に有利に傾き、キリスト教勢力は危機感を抱いた。 きっかけは、1198年に選出されたローマ教皇インノケンティウス3世によってもたらされた。カトリックの威信の発揚とイスラームの撃退を目指した新教皇は、キリスト教諸国間の争いを停止し、対ムスリムで結束するように呼びかけたのである。これに応えて、ヨーロッパでは第4回十字軍が結成された。イベリア半島でも、アルフォンソ8世を中心としたキリスト教連合軍が結成されることになった。ピレネー山脈を越えて多くの十字軍騎士が来援し、アルフォンソ8世の軍勢は急速に膨れ上がった。ポルトガルやレオンから兵が派遣され、ナバラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世は自ら軍を率いて合流した。連合軍は総数6万を超えた。 1212年7月16日、現アンダルシア州北部のナバス・デ・トロサで、アルフォンソ8世率いるキリスト教連合軍約5万と、ムハンマド・ナースィル率いるムワッヒド朝軍約12万が激突した(双方の兵力は諸説ある)。ラス・ナバス・デ・トロサの戦いはキリスト教連合軍の勝利に終わり、ムワッヒド軍は6万以上(10万以上とも)の死者を出したと伝えられている。これによって、ムワッヒド朝のイベリア半島における軍事力は大きく減退した。 しかし、キリスト教勢力はこの勝利を十分に活用することができなかった。カスティーリャとアラゴンは戦いの直後に王が死去し、後継者争いで内乱の一歩手前の状態になった。レオンとポルトガルは勢力拡大に乗り出したが、単独で勝利できるほどにはムワッヒド朝軍は弱体化しておらず、目立った戦果を上げることはできなかった。結局、各国が体勢を立て直して再度の反攻に出るまでに10年が費やされた。
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