教皇の呼びかけとラス・ナバス・デ・トロサの戦いとは? わかりやすく解説

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教皇の呼びかけとラス・ナバス・デ・トロサの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)

レコンキスタ」の記事における「教皇の呼びかけとラス・ナバス・デ・トロサの戦い」の解説

12世紀後半まで、キリスト教諸国ムワッヒド朝戦いはほぼ互角といえた。キリスト教諸国それぞれの勢力拡張重点を置き、統一戦線張って戦おうとはしなかった。ムワッヒド朝も、本拠地北アフリカであることから東方への拡張主眼としており、イベリア半島にはそれほど戦力割いていなかった。このような勢力事情から、決定的な局面はなかなか訪れなかった。 しかし、1184年ヤアクーブ・マンスール即位すると、ムワッヒド朝積極策に転じた1195年、アラルコスの戦いでカスティーリャ王アルフォンソ8世の軍を破り1197年にはマドリードトレド攻撃しキリスト教勢力圧迫したイベリア半島状勢ムワッヒド朝有利に傾きキリスト教勢力危機感抱いたきっかけは、1198年選出されローマ教皇インノケンティウス3世によってもたらされた。カトリック威信発揚イスラーム撃退目指し新教皇は、キリスト教諸国間の争い停止し、対ムスリム結束するように呼びかけのである。これに応えてヨーロッパで第4回十字軍結成された。イベリア半島でも、アルフォンソ8世中心としたキリスト教連合軍が結成されることになったピレネー山脈越えて多く十字軍騎士来援し、アルフォンソ8世軍勢急速に膨れ上がったポルトガルレオンから兵が派遣されナバラサンチョ7世アラゴン王ペドロ2世は自ら軍を率いて合流した連合軍総数6超えた1212年7月16日、現アンダルシア州北部のナバス・デ・トロサで、アルフォンソ8世率いキリスト教連合軍約5万と、ムハンマド・ナースィル率いムワッヒド朝軍約12激突した双方兵力諸説ある)。ラス・ナバス・デ・トロサの戦いキリスト教連合軍の勝利終わりムワッヒド軍は6以上(10万以上とも)の死者出した伝えられている。これによって、ムワッヒド朝イベリア半島における軍事力大きく減退した。 しかし、キリスト教勢力はこの勝利を十分に活用することができなかった。カスティーリャアラゴン戦い直後に王が死去し後継者争い内乱一歩手前の状態になったレオンポルトガル勢力拡大乗り出したが、単独勝利できるほどにはムワッヒド朝軍は弱体化しておらず、目立った戦果上げることはできなかった。結局各国体勢立て直して再度反攻に出るまでに10年費やされた。

※この「教皇の呼びかけとラス・ナバス・デ・トロサの戦い」の解説は、「レコンキスタ」の解説の一部です。
「教皇の呼びかけとラス・ナバス・デ・トロサの戦い」を含む「レコンキスタ」の記事については、「レコンキスタ」の概要を参照ください。

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