教皇の教書公布
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大司教がグレゴリウス12世に忠実だった間は、ウィクリフの新思想に対する反対派は失望が続いていたが、大司教は対立教皇アレクサンデル5世(ピサ教会会議で選出)の拝謁に際して、ウィクリフ派がボヘミアの聖職者に騒動を持ち込んだとして告発すると、アレクサンデル5世は1409年12月20日に教書で大司教の権限を強化し、ウィクリフ主義に法的手続きをとること、すなわちウィクリフの著述を廃棄し、教義を無効とし、自由な伝道を禁止すると布告した。 教書公布後の1410年、フスは教皇に訴えたが聞き入れられず、全てのウィクリフの書物と写本が焚書となった。そして、フスとその支持者は追放された。この裁きはボヘミアの下層民の間に大変な騒乱を引き起こし、何箇所かで不穏な場面が現れた。政府はフスとその支持者を庇護し、その力は日に日に増大した。フスはベツレヘム礼拝堂で、告発に対して一層大胆な説教をした。プラハの教会は閉鎖され、教皇による禁令がプラハに発せられたが、フスらボヘミア人の運動は止まらなかった。
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