コレハレスの戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > コレハレスの戦いの意味・解説 

コレハレスの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 01:45 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
コレハレスの戦い
Batalla de los Collejares
レコンキスタ

グラナダ王国へのカスティーリャの進撃を著す地図。
1406年
場所 コレハレス、ウベダバエサグラナダ
結果 カスティーリャ王国の勝利
衝突した勢力
カスティーリャ王国 ナスル朝グラナダ王国
指揮官
エンリケ3世 ムハンマド7世

コレハレスの戦い西: Batalla de los Collejares)、またロス・コレハレスの戦いは、1406年に発生したレコンキスタ中のカスティーリャ王国ナスル朝グラナダ王国との戦闘。時のカスティーリャ王エンリケ3世と時のナスル朝スルターンであったムハンマド7世による直接対決で会った。コレハレスはスペイングラナダにあるウベダバエサの町の近くにある。

カスティーリャ王国は、グラナダを支配していたナスル朝と和平条約を結んでいたが、権力闘争と宮廷の変化により、ナスル朝は停戦を破ることになった。ムハンマド7世は、モロッコにあったマリーン朝の後押しを受け、ムルシアに侵攻した。ポルトガルとの一連の戦いを終えたカスティーリャのエンリケ3世は、1402年にポルトガルと和平条約を結んだことで、グラナダの脅威に対抗する機会を得た。この作戦に参加したカスティーリャ側の有名な騎士の一人、フアン・デ・トバル・イ・トレド(Juan de Tovar y Toledo)は、コレハレスでの軍事行動の功績もあって土地と称号を与えられた。エンリケ3世は、数世紀にわたるレコンキスタの末、イベリア半島で最後のイスラム教徒の拠点となったグラナダに向かった。両軍は、ウベダとバエサの町に近いコレハレス周辺で合流した。最終的にカスティーリャ軍はグラナダ首長国の軍を撃退した。なおエンリケはその数ヵ月後の1406年12月に亡くなっている。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  コレハレスの戦いのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「コレハレスの戦い」の関連用語

1
6% |||||

コレハレスの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



コレハレスの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのコレハレスの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS