コレトの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/07/07 14:09 UTC 版)
コレトの戦い | |
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戦争:テキサス革命(対メキシコ) | |
年月日:1836年3月19日 - 3月20日 | |
場所:テキサス州ゴリアド郡 | |
結果:テキサス軍の敗北 | |
交戦勢力 | |
メキシコ共和国 | テクシャン(コアウイラ・イ・テハス州へのアメリカ人入植者)及びテハーノ |
指揮官 | |
ホセ・デ・ウレア | ジェームス・ファニン |
戦力 | |
80竜騎兵、260歩兵、500人以上の援軍 | 300歩兵、9大砲 |
損害 | |
212名が死傷 | 9人死亡、60人負傷 |
コレトの戦い(コレトのたたかい、Battle of Coleto)、またはコレト・クリークの戦いは、1836年3月19日–3月20日に行われた、テキサス革命のゴリアド戦役における、メキシコとそれに反乱するテクシャン入植者との間の戦闘。ジェームス・ファニン大佐が指揮したテクシャン軍が、ホセ・デ・ウレア将軍指揮下の連邦部隊に敗れた。
背景
サミュエル・ヒューストン将軍からのビクトリアへの撤退の命令を受けて、テキサス軍はゴリアド伝道所の防備のために残った。彼の将校からの強い反対に対して、コレト・クリークの1マイル手前で、ファニンは彼の部隊の停止を命じた。テクシャン軍は、ちょうどクリークのくぼみの四方が開けた草原地帯にいて、即座にウレアの部隊に包囲された。戦闘の二日目、負傷者と水不足のために、ファニンは降伏した。テクシャン軍は9名死亡、51名負傷で、ファニン自身も大腿部を撃たれた。テクシャン軍の降伏はゴリアドの虐殺を引き起こすことになる。
コレトの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 05:27 UTC 版)
「ジェームス・ファニン」の記事における「コレトの戦い」の解説
3月19日午前9:30頃、ファニンはデファイアンス砦からゆっくり撤退を開始し、持ち帰れないものはすべて破壊した。ファニンは9台の大砲と500以上の予備のマスケット銃を持ち、重い物資と手荷物を担いでいた。ファニンが休止を命令するまで、縦列は6マイルほど行軍した。午後3:00頃、メキシコ軍の騎馬隊がファニンの軍隊の近くに出現した。テキサス軍はすぐさまウレア将軍の軍隊の攻撃に備えて大砲を設置した。激しい戦闘の後、メキシコ軍は100名から200名が死傷、テキサス軍の損失は7名から9名が殺され60名が負傷した。ファニンと彼の軍隊は、残りの軍隊に圧倒され、このコレトの戦いに降伏した。彼らはデファイアンス砦に戻らされ拘置された。 メキシコ軍のウレア将軍は、ビクトリアに向かう間、ホセ・ニコラス・デ・ラ・ポルティリャ大佐にラ・バイア駐屯地の指揮を命じた。1836年3月26日、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍の命を受けた特使がポルティリャのもとに到着し、ポルティリャは翌日捕虜を撃ち殺す返事をした。1836年3月27日、ファニンの兵士は3列の隊列になり、全員至近距離から銃殺された。ファニンは着席し目隠しされて銃殺隊に狙撃された。 テキサス州ファニン郡、ジョージア州ファニン郡は彼の名前にちなんでいる。皮肉なことに、テキサス州ファニン郡の郡都はボーナムで、これはファニンにアラモへの救援を求めたジェームス・ボーナムの名にちなんでいる。タイラー近くに位置する、第二次世界大戦中に使用された大きい軍事訓練施設および戦争捕虜収容所であるキャンプ・ファニンも彼の名前からきている。 典拠管理 FAST: 389741 LCCN: n97034319 SNAC: w6p857n3 VIAF: 4212166 WorldCat Identities: lccn-n97034319
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