南バスク
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南バスク(スペイン・バスク)4地域はバスク語ではエウスカディと表記され、いずれもスペインの県に位置づけられている。このうち西部の3地域(アラバ県、ビスカヤ県、ギプスコア県の3県)は、1979年から面積7,234 km2のバスク州を構成し、「バスク3県」とも呼ばれるバスク地方の中核的な地域である。東部の1地域(ナバーラ県)は1982年から単独で面積10,391 km2のナバーラ州を構成しており、面積はバスク州3県の合計より大きい。南バスク全体の面積は17,955 km2であり、2010年と2011年の調査に基づく人口は2,810,331人である。アラバ県内にあるカスティーリャ・イ・レオン州の飛び地トレビニョ(英語版)とビスカヤ県内にあるカンタブリア州の飛び地バリェ・デ・ビリャベルデ(英語版)はバスク州には含まれないが、バスク地方の範囲には含まれる場合がある。 地域中心都市日本語名面積(km2)人口(人)バスク語名カスティーリャ語名日本語名バスク語名カスティーリャ語名アラバ 3,316 317,016 Araba Álava ビトリア=ガステイス Gasteiz Vitoria ビスカヤ 2,236 1,151,708 Bizkaia Vizcaya ビルボ Bilbo Bilbao ギプスコア 1,980 700,314 Gipuzkoa Guipúzcoa ドノスティア Donostia San Sebastián ナファロア 10,421 641,293 Nafarroa Navarra イルーニャ Iruña Panplona
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南バスク
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824年、イニゴ・アリスタらがフランク王国のルイ1世(敬虔王)に勝利したことでパンプローナ王朝(後のナバーラ王国)が誕生し、その息子のガルシア・イニゲスはアストゥリアス王国との戦いの後に和平を結んだ。イニゴ家の起源については定かでないが、ピレネー山脈北部から出てナバーラのサラサール谷に定住していた可能性がある。イニゴ・アリスタ朝は3代続き、905年にはヒメノ家のサンチョ・ガルセス1世がパンプローナ王となってヒメノ朝が開始された。922年にはアラゴン伯領を保護領とし、924年には後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世によってパンプローナが略奪・焼き討ちに遭うが、937年にはアストゥリアス・レオン王国と同盟を結び、939年にはシマンカスの戦いに勝利してイスラーム勢力を撃退した。フランク王国のカール大帝によって自然崇拝が禁じられていたが、パンプローナに修道院や司教区が設置されるようになったのは9世紀になってからであり、11世紀になってようやくビスカヤやギプスコアにも修道院が急増した。 1004年に即位したサンチョ3世(大王)はバスクの諸地域を次々と従えた。ラブールとバス=ナヴァールの質権を受け取り、婚姻によってビスカヤとアラバを併合し、スールも間接的にナバーラ王国に従属していた。サンチョ3世の死後、正嫡の長男が王国を相続すると言う当時のイベリア半島の慣習 に反して、ナバーラ王国はサンチョ3世の遺言どおりにアラゴン、ナバーラ、カスティーリャ、ソブラルベ(英語版)とリバゴルサ(英語版)に分割されて4人の息子たちに与えられたが、兄弟は敵対して領地争いが起こった。ナバーラ王国は1076年にはアラゴン王国の一地方となったが、ガルシア6世(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てた。1212年にはサンチョ7世(不屈王)がキリスト教連合軍の一員としてラス・ナバス・デ・トロサの戦いに参加し、レコンキスタにおける重要な役割を果たしたが、1234年に死去したサンチョ7世には正当後継者がいなかったため、シャンパーニュ家のテオバルド1世がナバーラ王となり、フランス王朝が始まった。11世紀以後にはナバーラ王国内部をサンティアゴの巡礼路が通るようになり、いくつかの都市が巡礼路沿いに建設された。巡礼路はバスク地方のキリスト教化に貢献し、15世紀末にはバイオナ司教区、オロロン司教区、ダックス司教区、イルニャ司教区、ガステイス司教区の5司教区がバスク地方を所轄していた。 バスクの他地方を見ると、9世紀にはアラバとビスカヤの名称が、11世紀にはギプスコアの名称が初めて文献に登場した。アラバはナバーラ王国内の領主領や伯爵領として9世紀中頃から独立を保ったが、1076年にアラゴン=ナバーラ連合王国に吸収され、1200年にはアルフォンソ8世によってカスティーリャ王国に併合された。ギプスコアはいったんカスティーリャ王国の支配下にはいったが1076年に分離独立し、1180年にはサン・セバスティアンがナバーラ王国のサンチョ6世からフエロを得ていたものの、1200年に再びカスティーリャ王国のアルフォンソ8世によって併合された。ビトリア=ガステイスやサン・セバスティアンだけでなく、1330年代前半にはアラバとギプスコアのほぼ全領域がカスティーリャ王国に飲み込まれている。ビスカヤは11世紀半ばからナバーラ王国のビスカヤ領主による封建体制が続き、1379年にカスティーリャ王国に併合された。カスティーリャ王国はトレビニョ(英語版)を除いたアラバ、ビスカヤ、ギプスコアにフエロ(特権)を認め、バスク3地方は政治的独立、国税免除、兵役免除などの権利を得た。カスティーリャ王はビスカヤ領主に就任するとゲルニカに出向き、ゲルニカのオークの木の前でフエロの遵守を宣誓する義務を負っていた。1483年にカスティーリャ女王イサベル1世がゲルニカの木の下で宣誓を行ってから、1839年まではこの宣誓なしにはビスカヤ領主として認められなかった。1181年にサン・セバスティアンが建設されたのを発端として、オンダリビア、ゲタリア、サラウツ、ベルメオなどの港湾都市が誕生し、1300年には14世紀後半以後にバスク地方の中核都市となるビルバオが建設された。
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