南バスクとは? わかりやすく解説

南バスク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 00:45 UTC 版)

バスク地方」の記事における「南バスク」の解説

南バスク(スペイン・バスク)4地域バスク語ではエウスカディと表記されいずれもスペインの県位置づけられている。このうち西部の3地域アラバ県ビスカヤ県ギプスコア県の3県)は、1979年から面積7,234 km2バスク州構成し、「バスク3県」とも呼ばれるバスク地方中核的な地域である。東部の1地域ナバーラ県)は1982年から単独面積10,391 km2ナバーラ州構成しており、面積バスク州3県の合計より大きい。南バスク全体面積17,955 km2であり、2010年2011年調査に基づく人口は2,810,331人である。アラバ県内にあるカスティーリャ・イ・レオン州飛び地トレビニョ(英語版)とビスカヤ県内にあるカンタブリア州飛び地バリェ・デ・ビリャベルデ(英語版)はバスク州には含まれないが、バスク地方範囲には含まれる場合がある。 地域中心都市日本語面積(km2)人口(人)バスク語名カスティーリャ語日本語バスク語名カスティーリャ語アラバ 3,316 317,016 Araba Álava ビトリア=ガステイス Gasteiz Vitoria ビスカヤ 2,236 1,151,708 Bizkaia Vizcaya ビルボ Bilbo Bilbao ギプスコア 1,980 700,314 Gipuzkoa Guipúzcoa ドノスティア Donostia San Sebastián ナファロア 10,421 641,293 Nafarroa Navarra イルーニャ Iruña Panplona

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南バスク

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824年イニゴ・アリスタらがフランク王国ルイ1世敬虔王)に勝利したことでパンプローナ王朝(後のナバーラ王国)が誕生し、その息子ガルシア・イニゲスアストゥリアス王国との戦いの後和平結んだイニゴ家起源について定かでないが、ピレネー山脈北部から出てナバーラサラサール谷に定住していた可能性がある。イニゴ・アリスタ朝は3代続き905年にはヒメノ家のサンチョ・ガルセス1世パンプローナとなってヒメノ朝開始された。922年にはアラゴン伯領を保護領とし、924年には後ウマイヤ朝アブド・アッラフマーン3世によってパンプローナ略奪焼き討ち遭うが、937年にはアストゥリアス・レオン王国同盟を結び、939年にはシマンカスの戦い勝利してイスラーム勢力撃退したフランク王国カール大帝によって自然崇拝禁じられていたが、パンプローナ修道院司教区設置されるようになったのは9世紀になってからであり、11世紀になってようやくビスカヤギプスコアにも修道院急増した1004年即位したサンチョ3世大王)はバスク諸地域次々と従えたラブールバス=ナヴァール質権受け取り婚姻によってビスカヤアラバ併合しスール間接的にナバーラ王国従属していた。サンチョ3世死後正嫡長男王国相続すると言う当時イベリア半島慣習反してナバーラ王国サンチョ3世遺言どおりにアラゴンナバーラカスティーリャ、ソブラルベ(英語版)とリバゴルサ(英語版)に分割されて4人の息子たち与えられたが、兄弟敵対して領地争い起こったナバーラ王国1076年にはアラゴン王国の一地方となったが、ガルシア6世復興王)が王位就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権建てた1212年にはサンチョ7世不屈王)がキリスト教連合軍の一員としてラス・ナバス・デ・トロサの戦い参加しレコンキスタにおける重要な役割果たしたが、1234年死去したサンチョ7世には正当後継者がいなかったため、シャンパーニュ家テオバルド1世ナバーラ王となり、フランス王朝が始まった11世紀以後にはナバーラ王国内部サンティアゴ巡礼路が通るようになり、いくつかの都市巡礼路沿いに建設された。巡礼路バスク地方キリスト教化貢献し15世紀末にはバイオナ司教区オロロン司教区ダックス司教区、イルニャ司教区ガステイス司教区の5司教区バスク地方所轄していた。 バスクの他地方を見ると、9世紀にはアラバビスカヤの名称が、11世紀にはギプスコアの名称が初め文献登場したアラバナバーラ王国内の領主領や伯爵領として9世紀中頃から独立保ったが、1076年アラゴンナバーラ連合王国吸収され1200年にはアルフォンソ8世によってカスティーリャ王国併合された。ギプスコアはいったんカスティーリャ王国支配下にはいったが1076年分離独立し、1180年にはサン・セバスティアンナバーラ王国サンチョ6世からフエロ得ていたものの、1200年に再びカスティーリャ王国アルフォンソ8世によって併合された。ビトリア=ガステイスサン・セバスティアンだけでなく、1330年代前半にはアラバギプスコアのほぼ全領域カスティーリャ王国飲み込まれている。ビスカヤ11世紀半ばからナバーラ王国ビスカヤ領主による封建体制続き1379年カスティーリャ王国併合された。カスティーリャ王国はトレビニョ(英語版)を除いたアラバビスカヤギプスコアフエロ特権)を認めバスク3地方政治的独立国税免除兵役免除などの権利得たカスティーリャ王ビスカヤ領主就任するゲルニカ出向きゲルニカオークの木の前でフエロ遵守宣誓する義務負っていた。1483年カスティーリャ女王イサベル1世ゲルニカの木の下で宣誓行ってから、1839年まではこの宣誓なしにはビスカヤ領主として認められなかった。1181年サン・セバスティアン建設されたのを発端として、オンダリビアゲタリアサラウツベルメオなどの港湾都市誕生し1300年には14世紀後半以後バスク地方中核都市となるビルバオ建設された。

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